― 朧月 38




念の発動場所は『朧月』ではく、森の中にある屋敷の前にした。
異世界へと空間転移する事は、意識ある状態では初めてであり、万が一暴走した場合、周囲への被害がどうなるか分からない為だ。

「マスター、範囲はなるべく広範囲にて頂いてかまいませんか?」
「え?どうして?」

屋敷の前で『渡りの杖』を具現化していたは首を傾げる。
今のは念が全開だ。
普通に対峙していてもかなりの威圧感を感じる程の状態だ。

「確かに狭い方が効率は良いかもしれませんが、わたくしは念で実体がありません。ですから、狭い範囲ですと自分がその範囲に入っているかどうか不安になってしまうのです。勿論、マスターの能力を疑ってなどいませんよ」

ミスティは不安そうな表情を浮かべている。
何しろ移動先が異世界の上、は自分以外の転移を試したことがない。
初の試みが2つ重なるのだ。
ミスティが不安に思っても仕方がないとは思う。

「うん、そうするね」

ミスティが安心してくれるのならば、範囲を広げるくらいは全然構わないと思う。

「広げられても、半径300メートルくらいまでだけど、平気?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます、マスター」

ほっとした様子を隠しながら、ミスティは笑みを浮かべる。
ミスティがこうやって表情を変えるのは珍しいと思う。
やはり、知らない世界に行くことで緊張しているのだろうか。

「それじゃあ、始めるよ」
「はい」

銀色の杖をすぅっと構える。
は瞳を閉じて、杖で移動する範囲を描く。
この森にすむ生物は基本的に人の気配に敏感で、この屋敷に近づくことはない。
だから、範囲はこの周囲300メートルでも平気だろう。
この森の生き物の中には、元の世界にはいないような異種もいるのだ。
紛れ込んだら大変なことになる。

今はとにかく集中だ。
頭に元の世界の光景を浮かべる。
3年経ったとはいえ、生まれ育った世界をそう簡単に忘れるわけではない。

お母さん、お父さん。

ぐっと銀の杖を握り、は念を込める。
この世界に来たのは突然だった。
朧月の夢は以前から見ていたが、まさかこの世界に来ることになるとは思わなかった。
しかもこの世界をは”知って”いた。

すっと銀の杖で転移する範囲を示す。
杖で示された範囲を念で囲う。
囲まれた空間を移動するイメージを浮かべる。
転移先は、が消えた高校の近くの小さな小道。

戻る!もう一度あの場所に…!

の強い思いと共に念が発動した。
ぐらりっと空間が揺れる感覚と、ねじ込まれる感覚。
決して気持ちのいい移動方法ではない。
1つの世界の中での移動ならば、ここまで負荷はかからないだろう。
だが、世界を渡るとなるとそれなりの負荷がかかる。
はずんっと体が重くなった気がした。

うそ、予想以上に念の消費が…!

自分とミスティ、2人分のつもりで発動させた念。
もしかしたら何かが紛れ込んでしまったかもしれない。
予想外のことがおこれば、の体に負荷がかかるのは必然。

もう少し…!

空間を移動する時間はほんの一瞬だ。
だが、にとってこの一瞬は何時間だと思えるほど長く感じた。
大量に消費されていく念と、奪われていく体力。
この世界に戻る時は、予想外のこともちゃんと考えて念を配分しようと決めた。
そして、光が見える。
懐かしい光景がぼやっと目に映り、は自分の足が地に着くのを感じた。

森とは言えない木々の数と小さな小道。
その向こうに見えるのは懐かしい高校。
3年経っても何も変わった様子は見られない。

「もど……」

戻れた、そう口にする前にの意識が沈む。
異世界を渡るということが予想以上に負担が大きかったからか、それとも何か計算違いをしたのかは分からない。
物凄く体が重かった。
ふらりっと揺れるの体。

「マスター!」

ミスティの声が耳に聞こえて、地面に倒れるはずだった自分の体を、誰かの暖かい手に受け止められたと感じたのを最後に、の意識は深く沈む。
消費が激しすぎるために、身体が休息を求めたのだろう。



沈んだ意識が見るのは過去のこと。
としての過去も見る。
だが、多くは朧月の過去だ。
20年と500年では、500年の記憶の方が多いのは当然だろう。
朧月の記憶はの記憶となって、夢に出る。


『最後の試験?』

きょとんっと首を傾げたのは、267期ハンター試験に唯一合格した少年だ。
朧月は裏試験の試験官としてこの少年に念を教えることを、ハンター協会から引き受けていた。
初めての弟子ながら、少年、ジンは驚くほど飲み込みが早かった。

『裏試験はもう合格じゃないのか?』
『勿論合格だよ。けど、ジン君は俺から離れないじゃないか』
『あったり前だろ。まだ、朧月に勝ってない』
『ジン君はもう俺より強いよ』
『どこが!朧月に一発も当ててない!』
『それは俺が逃げること前提に戦っているからだよ。本気で戦ったら絶対に負ける』
『じゃあ、本気でやろう!』
『え…、嫌だ』

物凄く嫌そうに朧月は拒否する。

『何で、そうやって拒否するんだよー!』
『だって、俺、本来は平和主義だから戦いは嫌なんだよ』
『平和主義って言っても、朧月強いじゃん!だから、戦っても平気だろ?』
『ジン君、俺のこと過大評価してない?』
『してない!』

きっぱり言い切るジン。
朧月ははぁ…と大きなため息をつく。
この弟子はとても頑固だ。
やると決めたことはなにが何でもやり通そうとする。
朧月は過去、何度も本気の戦いを申し込まれていたが、ことごとく断っていた。

『俺はもうジン君に教えることなんてないんだから』
『だから、最後に真剣勝負やろうよ!』
『真剣勝負は嫌だ』
『何で?!』
『だから、その代わり最後の試験をやろう』

朧月は提案する。
これでジンが勝てたら、真剣勝負なしで卒業だと。

『オレが負けたら?』
『勝てるようになるまで挑戦し続けるか、それとも諦めるかかな』
『挑戦する!絶対に諦めない!』
『そう言うと思った』

朧月は苦笑する。
ジンは意外と負けず嫌い。
小さなことでも勝つと思ったことにはとことんやり抜く。

『勝負は簡単。ここから世界一周』
『世界一周?走って?』
『ううん、移動手段は何でもオッケーだよ』
『げ…、それじゃあ、絶対に朧月の方が有利だろ!』
『そこをなんとか頑張ってね』

にっこり笑みを浮かべる朧月。
多少朧月が有利な方がいい。
最初からジンが有利なようにすると、ジンは勝負を嫌がる。

『但し指定した名所のお土産を購入すること。購入資金はここをスタートしてから稼ぐこと。勿論ここから1周してくるまでで必要な資金も全部今から稼ぐこと』
『…まじ?』
『うん、本気。ズルしたら分かるように、ミスティに見張っていてもらうよ』
『はい、お任せ下さい』

いつの間にかその場に来ていたミスティは、お盆を持ち、その上に3つの紅茶を乗せていた。
カップを1つずつ、朧月とジンに差し出す。

『霞の妖精が見張りって、朧月がズルしたらこの人なら見逃すかもしれないじゃないか』
『マスターが決めたルールをマスター自身が破るとは思えませんよ。万が一破るようなことがあれば、わたしくはきちんと報告します』

ミスティは意外と平等だ。
何かあった時には朧月を最優先させるが、危険性がない限りは結構厳しいことを朧月に対しても言う。
だからこそ、のほほんな朧月がここまでの実力を持つことが出来たのかもしれない。

『スタート時に資金になるようなものを持っていたり、盗みで稼いでいたのが発覚したら、その時点でジン君の負け。ミスティに強制的にここに連れ戻されてお説教かな?』
『お説教……』

ジンは物凄く嫌そうな表情をする。
ミスティは朧月にもびしりっと言うが、朧月以外には本当に容赦がない。
ぐさりっと来る言葉ばかりをずばずばっと言ってくるのだ。
それが当たっている分言い返せないのがさらに辛い。

『俺がルール違反した場合は…えっと、どうしようか?』
『考えていなかったんですか、マスター』
『う、ごめん…』

呆れたような視線をミスティから送られて、思わずしょんぼりしてしまう朧月。
ジンはこういう光景を見慣れていはいたものの、大きなため息をついた。

『朧月がルール違反した場合は、スタート地点からやりなおしってのは?』
『そうですね、それにしましょう』

ジンが提案し、ミスティがそれに同意したことで決まった。

世界一周の最終試験。
名所は全部で6つ。
ミスティが趣味で指定したものなので、マイナーなものもあり見つけることがまず大変だったものもあった。
第一回目は半年ほどかかって、結局朧月の勝ち。
お金の稼ぎ方がネックなようで、ジンはまだ上手く仕事を見つけられなかったようだ。
こればっかりは経験の差である。
第二回目は3ヶ月ほどで終了、僅差で朧月の勝ち。
名所は変えたのだが、時間は第一回目よりも短くなった。
第三回目は同じく3ヶ月ほどで終了、僅差でジンが勝った。

『これで、卒業だね。ジン君』
『ん、さんきゅ。んじゃ、もう一回やろう、朧月!』
『へ?』
『なんかやってるうちに物凄い楽しかったから、もう一回!今度はものすごいマイナー名所を回りたい!』
『それなら、森林の中の遺跡にある宝石とか、流星街の自治区ポスターとかにしましょうか?』
『あ、それいいな!』

朧月が指定した試験は、どうやらジンの遊び心に火をつけてしまったようで、ジンが勝ってからも世界1周の遊びがしばらく続いたのを覚えている。
お陰で入国が困難な国に入る方法を覚えたり、移動の念の応用を作ったりと、能力の向上も出来たのでよしとするべきか。
付き合うのに、かなり体力を必要とする弟子だったが、とてもいい子だったという記憶がある。

はそうやって、夢の中で記憶を反芻する。
思い出していた記憶、思い出していなかった記憶、としての小さな頃の記憶。
夢としてみる記憶は様々なものだった。