―兄上に愛されているだけで幸せに決まってる

ふんっと言い放ったのはあの人の弟。
いつだって偉そうで、でもその態度に見合った才能を持っている。
天才と呼べる人。

あの人に愛されていると思うだけで、幸せなのは分かるわ。
あの人に会えたことがこの上なく幸せな事だってことも分かるの。
でもね。
それ以上の幸せを望みたいって思ってしまうのは駄目かしら?

あの人が大切な存在で、ずっと大切な存在だということは変わらないの。
でも、もっと大切に思えるかもしれない存在を見つけてしまった。
ねぇ、もっと幸せになりたいって望むのは駄目?



瞳の中に眠るもの 06




奇人を狙った凶手を全て片付けた後、は黄邸に戻る事はしなかった。
服が返り血でとんでもない事になっている上に、まともに奇人と顔を合わせることが出来なかった。
反応が怖かった。
そのまま、3日程休ませて欲しいという便りを書いて、は知り合いの邸の中にいた。

逃げているっていうのは分かるのよ。
でも、少し逃げたくなるのも仕方ないじゃない。

この知り合いの邸に来たのは、愚痴を聞いてもらいたかったからである。
盲目であるのことを差別もせず、その他大勢と同じ扱いをしてくれるとても変わった人。
決して仲がいいわけでもないのだが、愚痴れる相手がこの邸の人しかいないという事実がちょっぴり悲しい。

あー、もう。
なんで、私の友好関係って狭いのかしら。

決しての友好関係が狭いわけではなく、全てを話してしまえるほどの相手が少ないだけだ。
凶手まがいのことが出来る腕があることなど、そうそう言えるものではないだろう。

「ため息をつくな、鬱陶しい」
「ため息くらいつきたくなるわよ…」

が待っていた相手がようやく来たらしい。
開口一番がこれとは、この相手は相変わらずのようだ。

「昼間からここに来るとは、ついに雇い場所がなくなったのか?格安でよければ、うちで使ってやってもいいぞ」
「結構よ。ここに来るくらいならば、邵可様の所に行くわ」
「何?!兄上の所は絶対に駄目だ!!ただでさえ、邪魔な家人がいるというのにこれ以上増やされてたまるか!」

ばんっと卓を思いっきり叩くのは、よりかは幾分年上の青年。
名を紅黎深。
彩七家の名門紅家の当主であり、朝廷では吏部尚書をも務めているきわめて優秀な人物である。
と黎深とは、黎深の兄である邵可を通じて、結構付き合いが長かったりする。

「相変わらずの邵可様馬鹿なのね」
「ふん…、兄上ほど素晴らしい人はないからな」
「そればっかりは同意するわ」

兄馬鹿黎深もそうだが、も邵可のことは大好きだった。
こんな弟がいると思えないほどに、表向きとても穏やかな人なのだ。

「で?職の斡旋をしてもらいに来たわけではないんだろう?」

黎深は天才とも言われる人物である。
人の心の動きもすぐ分かる。
だが、大切な者以外はどうでもいいので例え悟っても、それを表に出さなかったりするのは性格が悪い。

「ちょっと聞いてもらってもいい?」
「どうせ嫌だと言っても、勝手に話すんだろう」
「いいじゃない。こんな昼間からここにいるってことは、どうせまた吏部を放ってきたんでしょ。仕事をしないなら話にくらい付き合ってよ」
「やる気のない時に仕事をしてもはかどらないだけだ」
「黎深の場合は、年中殆どやる気なしでしょう」

天才的なものを持っていても、それを使わないのが紅黎深である。
彼が尚書となっている吏部ではとてつもなく仕事が厳しいらしく、養い子などはものすごく大変な思いをしているとの事。
吏部のことは噂でしか聞いた事がないので、は詳しくは知らないが、邵可が何も言わないので、も別に黎深が仕事をしなくても何も言わないことにしている。

「少し前に長期の仕事が見つかったのよ」
「そうか、よかったじゃないか。これで兄上も安心するだろう」

欠片もよかったとは思っていない口調の黎深。
これはいつものことだ。
聞いているだけでも、黎深にしてみればかなり譲歩しているのだ。

「その邸の主もとてもいい人で、黎深と違って仕事に対してとても熱心な方なのよ」
「私は能力を使うべき時に効率よく使っているだけだ」

黎深の言い分をさっくり無視しながらは続ける。

「それで、昨日ちょこっとその人が凶手に襲われていたから、その相手をしちゃったのよ」
「随分と説明を省いていないか?」
「黎深に詳しく説明する必要なんてないでしょう?」
「ならばそこの壁にでも語ってろ」

手に持っている扇でぴしりっと壁を指す黎深。
冗談でなく本気で言っている事は分かる。

「でもね、黎深に詳しく説明したところで、途中で”もういい、わかった”って言われるに決まっているもの」

頭の回転が素晴らしく速いこの天才は、が普通に説明していても先を読んでしまってその説明の途中で遮られてしまう。
黎深に何かを話すときは、過程をすっ飛ばしてしまうのが一番だ。
どうせ、真剣に聞いてもらえないのだから。

「下らない説明を長々とする方が悪い」
「そうは言ってもね、普通の人はあなたとは頭のできが違うのよ」
「私が相手に合わせる必要などない」

は思わずため息をつく。
それでも、こんな会話をするだけでも少しは気持ちが落ち着く自分がいる。

「どうせ下らないことで悩んでいるのだろう?凶手相手に互角に戦える女だから怖がられるだの、盲目だから相応しくないだのと。そんな程度で見限ってしまうやつは、その程度のものだったのだと思えばいい」

黎深の言葉に思わず驚いてしまう
説明という説明をしたわけではないというのに、分かったかのようなその言葉。
それは黎深が黎深だからなのだろうが、まるで慰めるような言葉に驚いた。

「どうした?」

驚いたまま何も反応しないに問う黎深。

「黎深がそんな事言ってくれるなんて思ってなかったから…」

の愚痴を聞き流して終わるかと思っていたのだ。
慰めの言葉なんて最初から期待していなかった。
ただ、ちょっとばかり事情を知っている人に愚痴りたかっただけなのだ。

が落ち込むと兄上が心配なさる。兄上の手を煩わすくらいならば、適当に慰めのひとつやふたつくらい口にするさ」
「結局は邵可様なのね…」

くすりっとは笑う。

「凶手並の強さがあるからだの、盲目だからだのという理由で見捨てられるような相手などには合わん。もっといい相手を見つけろ、でなければ兄上が安心できないだろう?」

そこでふと気づく。
は不親切すぎる説明を黎深にしただけなのだが、自分の気持ちまで言っただろうか。
仕事が見つかって、その主に凶手と戦うところを見られたことしか言っていない。

「私、仕えている主のことを想っているなんて言ったかしら…?」
「言っていないな」

しれっと答える黎深。

「だが、そのくらい表情の変化を見れば判る」

は思わず自分の頬に両手を当てる。
そんな判りやすい表情変化をしていたのだろうか。
鏡を見る事もないし、他の人の表情の変化を見るわけではないには分からない。

が気配で人の感情を察するように、私は表情を読み取るのが上手いんだ」
「黎深は人の弱味を握るのが上手いものね」
「褒め言葉として受け取っておこう」

静かに笑みを浮かべると黎深。

「本当に素敵な方なの」

仕事熱心で、休む事すらおろそかにしそうなほどだけれども。
無理な事は決して言わない。

「盲目だからとか、凶手並の強さがあるとかで差別なさるような方じゃないって事も頭では理解できているの」

表面上の事で人を評価したりしない。
その人の本質を見極めて、その人と接するようにする。
そういう人だと頭の中では分かっている。

「ならばこんな所で愚痴など言っていないで、その邸にでも戻ってとっとと告白でも何でもして来ればいいだろう」
「う、それが出来ればこんな所にいないわよ…」

頭では理解できても気持ちは別物である。
もし、万が一、もしかしたら、と小さな可能性を捨てきれない。
自分を否定されてしまったら、自分はその後奇人に対して何もしないでいられるだろうか。

「もしの主とやらが、その下らない理由でを捨てたとしてもだな。が兄上に愛されている事は何も変わらない。それだけで十分幸せに決まっている」
「それ、昔黎深がよく言っていたわよね」

邵可に愛されているだけで、それだけ十分幸せ。
の恩人とも言える人、紅邵可はとても優しい人だ。
一流以上の凶手としての腕を持ちながらも、その内面はとても優しくて、にとっては恩人であって唯一の人。
”愛”とか”恋”とかでは言い表せないほど大切な人だと思っている。
そんな人に愛されているのだから、確かに十分幸せかもしれない。

「相手に捨てられて、泣いて喚いても、兄上へのの気持ちは変わることはない。である限りはな」
「私が私である限り…」

は自分の手をきゅっと握る。
万が一の可能性が本当になった時、は自分がどう行動してしまうか分からない。
こんな感情ははじめてで、奇人に攻撃を仕掛けてしまう事すらありえある。
だが、そんなことをしてしまえば…

「私が感情のままに逆上して、主の周囲に被害を及ぼすような事になれば…」
「兄上から教わったその技術を私利私欲の為だけに使う事があれば、兄上がそれを知る前に私がを止めてやろう。腕や足を切り落としてでもな」
「黎深」

恩人である邵可はとても優しい。
だから、きっとが憎しみのまま悲しみのまま、感情に任せてその技術を使い、殺しをしてしまえばきっと悲しむ。
邵可を悲しませる事など、もしたくない。
そして兄第一主義の黎深は邵可が悲しむくらいならば、に大怪我をさせて止める事すらいとわない。
を殺そうとしないのは、がいなくなればやはり邵可は悲しむだろうからだ。

「あるがままのを受け入れない相手だったとしても、兄上がいるし、秀麗もいる」
「そう、ね」

邵可がいる、秀麗がいる。
大切と思える人達がいる。
そう思っていれば、感情のままに刀をふるう事はないかもしれない。

「自分がそんなに信用できないのならば、紅家の影を貸してやろうか?万が一の時、手足を切り落としてでも止めてもらう為にな」

いつになく優しいと思える黎深の言葉に、は笑みを浮かべる。
聞いてもらって少し気分が軽くなった。

「いえ、大丈夫よ」

はかたりっと小さな音をたてて椅子から立ち上がる。
愚痴を聞く相手が黎深でよかったと思う。
黎深は気を使うような言葉を絶対に言わない。
だから、こそいいのだ。

「当たって砕けてくるわ」

笑みを浮かべては、その場を立ち去る。
悩みが吹っ切れたような笑顔。
その姿を黎深はいつのと変わらない表情で見ていた。
そして小さく呟く。

「鳳珠ならば大丈夫だろう」

紅黎深。
若くして吏部の尚書として朝廷で働く、名門紅家当主。
そして、とは邵可を通しての昔からの知り合いだ。
兄馬鹿の黎深が珍しく、の愚痴にまともに言葉を返していたのは、が昔からの知り合いであることのほかに、もうひとつ理由があった。
その理由をが知るのは、もう少し後のことである。