― 盲目だからと思っては駄目よ。貴女にもきっと素敵な人が現われるわ。
綺麗に微笑む気配を持った、花の名前を持つ人。
あの人の奥さんだとは思えないほど、優しく穏やかな人。
そしてどこか恩人であるあの人に似ている優しさを持つ。
素敵な人はいたわ。
でも、その人はとても立派な人で、どこの家の出とも知らない私のような者が相手になれるような人でもないかもしれないの。
私のどこを見ても考えても、あの人のためになるものなんてないと思えてしまうの。
それでもね、気持ちだけは誰にも負けないと言えるわ。
隣に立ちたいなんて贅沢は言わない。
思う気持ちを否定しないで、私の存在を否定しないで欲しいって思うの。
それだけでも、きっと私は満足できると信じたいわ。
瞳の中に眠るもの 07
黎深に愚痴を聞いてもらった次の日。
は黄東区にある、勤め先の邸にちゃんと来ていた。
心臓はもうバクバクで、とてつもなく緊張している。
こんなに緊張したのなんて、物凄く久しぶりだわ。
暗器とも呼べる小刀等は、念の為ある人に預かってもらっている。
念には念を、だ。
その前に、突然の休暇届けなんて出したからクビになっているかもしれないのよね。
いえ、でも、その確認と、挨拶くらいはしてもおかしくはないはずよ。
の頭の中に余計な事までぐるぐるしてくる。
事情も説明せずに、頼りだけでの休暇届けを出したのでは、クビになっても文句は言えないだろう。
長期の仕事がなくなるのはやっぱり悲しいが、それよりも今は奇人に会うことが一番緊張する事だ。
仕事はまた見つければいいのよ。
うんと頷いて、は一歩踏み出していく。
数日振りだというのに、この邸に来るのがとても久しぶりのような気分になってくる。
「?」
かけられた声にはっとする。
聞き覚えのある女性の声。
「花蓮さん?」
「!邸に戻ってきたってことは、やっと体調が回復したのね!やっぱりあんな夜遅くに飛び出たりするからよ!」
「え?え?」
花蓮はの方に近づいてきて、ぐいっとの腕を引っ張る。
そのまま強引にを引きずるように歩き出した。
何がなにやら分からないは、されるがまま進む事になる。
「皆にそう通達があったのよ。もう!無理しないで頂戴!奇人様のお茶くみは他の子なんかじゃ、全く駄目なのよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい、花蓮さん!」
どういうこと?
私は確かに休暇届けを出したけれども、体調を崩しただなんて書いた覚えはないわ。
「ちょっとも何もないわ!」
「いえ、そうじゃなくて…」
ぐいぐい引っ張られる。
事情がさっぱり分からない。
誰かが何かフォローしてくれたということだろうか。
奇人はのあの強さを目にして何も言わなかったのだろうか。
「どうした、騒がしいぞ」
ふいに響いた声に、ぎくりっとなる。
花蓮に引っ張られて状況に混乱していた為に、気配を捉えることができなかった。
「奇人様、の体調が回復したようですから、これからは自室で仮面をつける必要はありませんよ。本当に申し訳ありません、私共にもう少し、ほんの少しでも免疫があれば、奇人様に不便な思いをさせることなどなかったのですが…」
「いや、構わない」
奇人の気配での方を向くのが分かった。
思わず一歩下がってしまう。
逃げても仕方ないと思って覚悟を決めたはずなのに、本人を目の前にするとその覚悟が何だったのか分からなくなるほど迷いが出てきてしまう。
「、茶を持ってきてもらえるか?」
奇人の口調がいつもとかわらないものなので、は一瞬きょとんっとしてしまった。
だが、すぐにすっと姿勢を正す。
「はい、かしこまりました」
そのまま奇人が立ち去る気配がする。
内心ほっとする。
態度が何も変わらない主。
それはとても安心したと同時に、少しだけ残念な気持ちになる。
最悪の事態にならなかっただけでも十分、よね。
がふっと浮かべた笑みは、少しだけ悲しげなものだった。
やはり、盲目という障害を持った女の恋など実らないのだろうと思ってしまった。
茶器の準備をして、奇人の自室へと向かう。
花蓮から聞いた話によると、奇人は今日は仕事がお休みの日らしい。
たまにあることだが、優秀な副官から強制的に休みをとらされるらしいのだ。
偶然にしても、今日がお休みなんて…よかったと言うべきかしら。
が体調を崩した事になっていたのは、誰かがそう知らせたらしい。
心当たりは全くないが、後で調べてみようと思った。
が便りに書いたのは、休暇を下さいという、理由も何もない便りだったはずだ。
落ち着くのよ。
黎深にきっぱり宣言してきてしまったんだもの。
言わないでのこのこ帰ろうものなら、絶対に黎深に馬鹿にされるわ。
それだけは物凄くむかつくから嫌なのよね。
よし!と気合を入れて、失礼しますと声をかけてから奇人の自室に入る。
まだ明るいうちから主の自室に入ることはめったにない。
最も、にとっては、夜でも昼でも見えないのだからあまり変わらなかったりするが…。
ことりっといつもの卓に茶碗を置いて、ふとは気づく。
今日はこの部屋から墨の匂いも紙の音も聞こえない。
珍しくも仕事を持ち込んでいないのだろうか。
「」
「はい」
突然ぐいっと腕を引かれて、奇人が腰掛けていた寝台の上にぽすんっと座らされる。
は驚いた表情のまま固まる。
奇人に引かれた手はつかまれたままである。
「奇人…様?」
「、説明してもらおうか」
「え…?」
何のことか変わらずきょとんっとしてしまう。
「まずは、ここ数日の欠勤の事だ。一度引き受けた仕事である以上、便り1つ程度で簡単に休むものではない」
「あ、はい…。申し訳ありませんでした」
それは奇人の言う通りだったので、しゅんっとしながら素直に謝罪の言葉を述べる。
今こうやっていつも通りの仕事をさせてもらえるだけでもありがたいのだ。
ここの主人は仕事に関して自分にも他人にも厳しい。
もそれは分かっていたはずだった。
「弁解は?」
「ありません。欠勤はただの私情によるものです」
「そうか」
ぎゅっと自分の手を握り締める。
奇人と顔を合わせたくない気持ちがあった。
ただそれだけで、仕事を放り出してしまった自分の無責任さを今更感じてしまう。
「それから…」
「はい」
他にも何かまずい事でもあったのだろうか、との声は沈んだものになってしまう。
これ以上この人の不快を買ってしまっては、いくらクビにならないとはいえ、仕事の上でかなり気まずくなってしまわないだろうか。
そんな思いが頭の中をぐるぐる回る。
「人の返事を聞かずに逃げるのはどうかと思うが?」
「…え?」
は思わず奇人の気配を探るように見てしまう。
「奇人様?」
返事と言えばひとつしかないだろう。
奇人に何か返事を求めたような問いをした覚えは、にはない。
だが、返事を返されるものと告白をした覚えはある。
「私は何も答えていないというのに、逃げる事はないだろう?」
「え?あの…答えと言われましても…」
わたわたと慌てる。
別に答えを望んでいるわけではない。
あの時は言わなければ後悔してしまうかもしれないと思ったから言っただけだ。
「私は答えを望んでいたわけではありませんでしたから…」
否定の言葉を返されたり、僅かな望みすら与えられない言葉などを返されたりでもすれば、自分は立ち直れなくなりそうだと思ってしまったから。
だから、逃げたのだ。
「ただ、あの時はそう思っていましたが、私は私の想いを奇人様が知っていてくださるだけで十分だと思えるようになりました」
にこりっと笑みを浮かべる。
吹っ切れたとも言うべきなのか。
こんな障害を持っていた事で、いつかはこんな想いをする日がくるだろうと心のどこかで分かっていたからこそ、吹っ切る事ができたのかもしれない。
「それでは私が困るな」
「奇人、様?」
「返事を望まないのでは、私が困る」
すっと奇人の右手がの頬に伸びる。
添えるように触れるだけの右手。
ふっと自分の顔に影がかかったのは分かった。
だが、は何が起こっているのか自覚するまで時間がかかった。
唇にふわりっと何か暖かいものが触れた感触。
それが何なのか見えないには一瞬理解できなかった。
近づいてきていた奇人の顔が離れていったと気配で分かり、何をされたのかをようやく自覚する。
「愛している、」
聞こえた言葉に、思わず自分の時がとまった感覚になる。
想いを返されるなどとは思っていなかった。
想い続けられる事だけで幸せなのだと想っていた。
「奇人、様…、私は…」
「ここ数日での想いは変わってしまったか?」
「いいえ!そんなことは…!!」
必死で首を横に振る。
は、ただ混乱しているだけだ。
「ですが、私は盲目で何の後ろ盾もない身分で…!」
「その程度のことを私が気にするとでも思っているのか?」
「いえ!ですが、奇人様が良くても周囲の方の…」
「」
ぐいっと引き寄せられると、奇人の腕が背にまわされ抱きしめられた。
暖かな体温が布越しに伝わる。
は自分の頬がほんのり赤く染まっているだろう事が分かった。
「私は、周囲の思惑の通りに気持ちを動かすほど器用ではない。周囲が何と言おうと、この気持ちは変わることはない。変わるのは周囲の気持ちだけだ」
泣きそうになるほどに嬉しかった。
何も見えない目から涙が零れてきそうになる。
聞き間違いではないのだろうかとさえ、疑ってしまうかのような言葉。
「奇人様…」
はそっと自分の腕を奇人の背にまわす。
「鳳珠、だ。」
「…奇人様?」
「私のことを呼ぶときは、鳳珠と呼べ」
ふっと顔を上げる。
”鳳珠”という名が何を意味するのか分からない。
「まさか私の名が、本当に”黄奇人”だとでも思っていたのか?」
「え?え?ち、違うのですか?」
「どこの国にそんな奇妙な名をつける親がいる…」
初めて聞いた時は、もおかしな名だとは思ったのだ。
だが、主は主、心の中でそんなことを思ったとしても口に出せるはずもない。
”黄奇人”とは本名なのですか?などと聞くわけにもいかないだろう。
「黄鳳珠、それが私の名だ」
「鳳珠、様…」
確認するかのように呟く。
”奇人”という名よりもその名のほうが、しっくりくる気がしてくる。
「愛している、」
「私も愛しています、鳳珠様」
奇人…鳳珠の顔がゆっくり近づいてくるのが分かった。
は唇に温もりを感じ、目から一筋のしずくをこぼす。
それは嬉しさからくるもの。
邵可様。
私、貴方に拾われた事がこの上ない幸せな事だとずっと思っていました。
貴方への感謝の気持ちは変わりませんし、それがとても幸せな事だという事も変わりません。
でも、もっと幸せだと思う事を見つけてしまいました。
今度、それを報告に行きたいと思います。