―貴女は、邪魔ではないですよ

そっけなくそう一言だけ返してくれた少年。
今はもう青年になっているだろう。
彼の笑顔を感じるまで、随分と時間がかかったのを覚えている。

貴方はあの子をずっとずっと見ていたわよね。
その気持ち、とってもよく分かる。
そして、あの人とあの人の奥さんにとても感謝をしている事も。

拾われた者同士。
最初は警戒されたけど、少しだけ打ち解けた時は嬉しかった。
貴方のそっけない言葉、結構嬉しかったのよ。



瞳の中に眠るもの 04




巷では風邪が大流行である。
貴陽の医師達は患者に追われている。
そしてここ、黄東区の邸でも風邪が蔓延していた。

「花蓮さん、大丈夫ですか?」

こほこほっと咳き込む花蓮。
この邸の人達の半分以上が、現在風邪で寝込んでいる。
幸いは健康そのものである。

「私はいいから…奇人様のところ、お願いね」
「はい、わかっています」

寝込んでいる花蓮も心配だが、主である奇人もこの風邪にやられている。
奇人のことだ、たとえ邸にいて風邪で寝込んでいたとしても仕事をしていそうである。
それはなんとしても止めなければ。
奇人に無理をさせないこと、それがお茶入れ以外のの最近の仕事になっていた。

薬湯を持っては奇人の部屋へと向かう。
薬湯だけではなんなので、小さなおむすびを2つほど作っておいた。
食べれそうならば、口にした方がいいと思ったからだ。

「失礼します」

声をかけてから入室するのはいつものこと。
部屋に入ってすぐにぱらりっと何かをめくる紙の音がした。

か」
「はい、薬湯をお持ちしましたがお加減はいかがですか?」
「大丈夫だ。そこに置いていって構わない」

声がほんの少しかすれている。
どうも気配からすると床に入っているようではなく、起き上がっているように思える。
は薬湯を卓の上に置き、奇人に近づく。
ほんのりと匂う墨の匂い。

「奇人様!」

はむっとしながら奇人を叱るように名を呼ぶ。

「仕事をなさっていますね、駄目ですよ!」
「見えていないのに何故そう言える?」
「先ほど紙の音がしました。それから墨の臭いがします」
「うむ…」

奇人は何か少しだけ考えるそぶりをする。
体調が悪い時にまで部屋に仕事を持ち込んで、この人はどれだけ無茶をすれば済むのだろう。
こんな時くらいゆっくり休むべきだ。
普段ただでさえ帰ってくるのも遅い、休みも少ないのだから。

「紙の音は気のせいだろう。墨の臭いは、実は先ほどまで友人に便りを書いていたのでな」
「…嘘をつくにしてももっとましなものにして下さい」

病気になったときに限って友人に便りを書くような人がどこにいるだろうか。
それが何か病気に関係する事ならともかくだ。
病気に関係する事などありえない。
ただの風邪で何の連絡をしようというのだろう。
薬は十分足りているし、この邸にはちゃんと医師もいる。

「私にすぐ嘘だと分かってしまうような事しか言えないようでは、頭の回転が悪い証拠ですよ。すぐに床に入って休んでください」

びしっと床を指す

「わかった…」

諦めたようなため息をつく奇人。
ため息をつきたいのはこちらの方である。
ゆっくり椅子から立ち上がる奇人だが、ふらりっと身体が揺れる。
それに気づいたは慌てて奇人の身体を支えた。

お、重い…。
やっぱり男の人なのね。
こう思っては失礼なんでしょうけど、結構重いわ。

「重いだろう?」
「え?い、いえ…!大丈夫です!」

思っていることをさらりっと言われてどきっとしてしまうが、まさかそれを肯定するわけにはいかない。
幸い体力には自信があるほうだ。
は床まで奇人を支える。
どさりっと倒れこむように寝台に横になる奇人。
相当疲れていたらしい。

「随分お疲れのようじゃないですか…。もう、こんな時に仕事なんてして無理するからですよ!」
「だが、終わらなくてな…」
「無理して終わらせて、奇人様が倒れられたらどうするんですか?」

は床に横になった奇人に薬湯を注ぐ。
横になっていた奇人は上半身だけを起こす。

「風邪をひいてしまった時はお休みするのが仕事ですよ」
「そうか?」
「そうなんです」

ほこほこ暖かい湯気が出ている薬湯の入った茶碗を奇人に指し出す。

「薬湯だけで大丈夫ですか?本当ならば薬もお持ちしようと思ったんですが…」
「薬は必要ない。どうせ寝れば治るだろう」

差し出された薬湯をくいっと飲み干す奇人。
本来ならば薬を飲んだほうがいいのだが、この主はあまり薬を飲むことを好まない。
なんでも思考能力が低下するのが嫌だとかなんとかの理由かららしい。
どこまで仕事馬鹿なのだろうか。
は小さくため息をつきながら、空になった茶碗を受け取る。

「本当に大丈夫ですか?奇人様」
「大丈夫だ」

声に全然元気がない。

「もう少し時間を置いて、様子を見に来ますね」
「必要ない」
「必要なくても来ます。大体、奇人様は無理しすぎなんですから、鬱陶しいくらいの感覚で様子を見ないと大変な事になるに決まっています」
「私はそこまで自己管理ができていないわけではないぞ」
「分かってます!奇人様はぎりぎりまで頑張って頑張って頑張り続けているだけですよね。でも、それが普通の人にとっては無茶なんです」

もう少し手を抜く事を覚えた方がいいのではないのだろうか。
奇人に対して何度そう思ったか分からない。

「もう一度来た時に、熱があるようでしたら薬を飲んでいただきますよ」
「む、それは困るな」
「それなら頑張って熱を下げてくださいね」
「でなければ、無理やりにでも薬を飲ませるつもりか?
「勿論です」

ぐっと拳を握り締める
そうでもしなければ奇人は薬を飲もうとしないだろう。
いっそのこと、今すぐ薬を取ってきて飲ませてもいいかもしれない。

「茶碗を無理やり口に突っ込まれたくなければ、素直に大人しく寝てください」
「口移しではないのか?」

ぴたりっとの動きが止まる。
が無理やり薬を飲ませる方法として取ろうと思う手段は、奇人の口元に無理やり薬を押し付けて茶碗を押し付けて飲ませるというものだ。
本当にしようものなら、主相手にとんでもない行為である。

「く…、口移しなんて、できるわけないじゃないですか!わ、私はそんな器用じゃありませんし!」

器用とかそういう問題なのだろうか。

「そんな事言っていないで、早く寝てください!」

上半身を起こしている奇人の身体をむりやり横たえる。
傍から見ると、が奇人を押し倒しているように見えてしまうかもしれない。

「って、奇人様、こんなに熱があるじゃないですか!」

ぴたりっと奇人の額に手を当てる
自分の額の体温と比べると随分高いように思える。
医術の心得があるわけではないが、これはちょっと高いだろうと思う。

「少し寒いな」
「少し、じゃないですよ。寒いなら寒いって早く言って下さい。もう一枚上にかけるものを持って来ます」
「いや、これでいい」
「え…?」

の腕がぐいっと引っ張られる。
その力に逆らう事をしなかったの身体は、ぽすんっと奇人の身体の上に覆うように倒れこむ。
背中に腕をまわされ、逃げられないように抱きしめられてしまう。

え、ええ?!
ちょ、ちょっと待って…!

「ききききき奇人、さま」
「私はそんな奇妙な名前ではない」

背中から伝わる手の暖かさは、熱があるだろうからか少し熱いとすら感じる。
は気配で奇人の感情を探るが、特にからかっているわけでもなければ、極自然にこの動作に及んだようにしか思えない。

も、もしかして、熱で寝ぼけていらっしゃる?

力加減から離そうとしてくれなさそうなので、は慌てずされるがままの状態になっている。
顔は奇人の胸の上に、両手は何をして言いか分からないので下げられたまま。

いつまでこのままなのかしら…って、え?

もそもそっと奇人が身体を動かすのが分かった。
起用にもの身体をずらすように、寝台に引きずり込む。
腰と肩に腕を回されている状態では動けない。

「暖かい」

私はちょっと暑いわ…。
で、でも…待って、本当にいつまでこのままなの?

女としての危機を感じているわけではない。
寝ぼけていても、この主がそんなことに及ぶような人ではないことは分かっている。
生憎とこの主の部屋に近づく人は殆どない。
奇人の素顔に耐性のある人が少ないからなのだが、それはそれでこんなところを誰かに見られて誤解されるという心配はないだろう。

「き、奇人、さま…?」

すぅ、と寝息が聞こえてくる。
気配も、深くはないが寝ているものに変わっている。
は困った。
このまま自分が寝ていいはずもない。

少しだけ楽しそうに笑う気配をする時。
気遣う声が聞こえる時。
そして、気を許してくれているかのように眠る人。

とてもいい主だと思う。
だからは、奇人が良い主であると分かった瞬間から決めていた。

この人を好きになっては駄目なのよ。
盲目である私は、どうあってもお荷物にしかならないもの。

一人前以上の仕事を出来る自負はある。
友人として付き合うならば、何のためらいもない。
でも、愛しては駄目。
なぜなら、その想いはきっと実らないだろうから。