―にこぉってして、にこぉって!ね、せいらんも!

純粋な輝きを持つ、きっととても可愛らしい少女なのだろうと思った。
声だけてとても癒される。
やっぱり貴女はあの人達の子供。

貴女は声だけで、私を癒してしまうんだもの。
はしゃぐような声に、何度も笑顔を引き出されたわ。
お姉ちゃんって呼んでくれたわよね。
すごく嬉しかった。

でも、あの人ってどこか不器用だから、ちょっと心配だけれども今も元気に過ごしているわよね?
それだけがちょっと心配なの。
顔を見に、今度の休暇に会いに行こうかしら。



瞳の中に眠るもの 03




ざぁぁぁっと外は物凄い雨が降っている。
久しぶりの大雨だ。
もしかしたら雷も鳴るかもしれない。
は雷があまり好きではない。

「すごい雨ですね」
「ええ、そうね」

のんびりと会話するのはいつも花蓮とだ。

「奇人様、大丈夫でしょうか?」
「軒で帰ってくるとしても、少し濡れてしまうでしょうね…。暖かいものでも用意する?」
「そうですね、暖かいお茶でもいいですが、汁物が何かあったほうがいいかもしれませんね」
「そうと決まれば動くわよ!!」
「はい」

ぐっと気合を入れる花蓮と苦笑する
小さな音など聞こえなくなるほどの大雨。
遠くの空でごろごろっと雷の音がして、はびくりっとなる。

「あら、は雷が嫌い?」
「…少しだけ」

誤魔化すかのように曖昧な笑みを浮かべる
昔は嫌いではなかった。
雷光のようなあの人が亡くなるまでは…。
あの人が亡くなってから、雷はあまり好きではなくなった。
それでも取り乱すほどではない。

あの子は何時の間にか、物凄く雷が嫌いになっていたわよね。

知り合いの大の雷嫌いの少女のことを思い、は雨を振る外に顔を向ける。
雨の勢いは変わらない。
水が沸騰してきたのか、庖厨がほんの少し暖かくなる。
主である奇人が戻るまで、この雨が少しでも弱くなっているようにとは祈る。

雷雨には悲しい思い出があるから、あまり好きじゃないわ。

沸いたお湯の鍋を上げ、汁物を作り始める
考え事をしながらも、手はいつものようにきちんと動くのはもう癖のようなものかもしれない。



主である黄奇人は、と花蓮の準備が終わった時間を見計らったかのように帰ってきた。
大雨は変わらず、雨に少しだけ濡れてしまったらしい。
はいつものお茶セットと、今回は着替えも持つように頼まれてしまった。
どうやらこの邸には、思った以上に奇人の顔に耐性がきちんとある人が少ないのかもしれない。

そんなにものすごい顔なのかしら?

が首を傾げてしまうのは仕方ないだろう。
まともなお茶いれの女官がいないのは、奇人の顔立ちのせいだというのは色々聞いて分かっているのだが、顔がどういけないのかは知らない。
口にするのも恐ろしいらしい。

「失礼します」

いつものように一度声をかけてから、部屋に入る

か…」
「着替えとお茶をお持ちしました」
「ああ、助かる」

は一度お茶一式を卓に置き、着替えを奇人の前に差し出す。
着替えの重みが手から消えたところで、お茶の準備をしようと思ったが、その手がぴたりっと止まる。
ここは一度部屋を辞した方がいいのではないのだろうか。
着替えの最中にこの部屋にいていいものなのか。

「どうした?
「い、いえ!」

ぱさりっと布の音がして思わずどきりっとする。
別に全裸になるわけでもないだろうし、何よりも濡れたのは一番上の上着だけだろう。
夜着程度のものは身にまとっているはずなので、そんな意識する必要はないだ。
ないのだが、やっぱり退室しようと思う

「着替えが終わったらお呼び下さい」

軽く頭を下げ、は退室しようとした。

「別に必要ないだろう。それより暖かいお茶が飲みたい」
「は、はい…分かりました」

少しだけぎこちない動きをしているを、奇人は不思議に思う。
目が見える者ならば、奇人の着替えの光景は大したものではない。
羽織っていた上着を変えただけだ。
上着がなくても別におかしくはない服装である。

み、見えないって、音に敏感だからこういう時に嫌ー!

意識しているのは自分だけだという事も分かる。
妙に鋭い聴覚になってしまった自分を、こんな時だけ埋めたくなってくる。

「今日は随分と冷えるな」
「そ、そうですね!」

思わず言葉もどもってしまう。
こんな言葉を返せば、奇人がおかしいと感じてしまうだろうに、いつもの冷静さがどうしても取り戻せない。
だが、奇人はの奇妙な慌て方に決して突っ込んでは来なかった。

「庖厨に汁物がありますが、持って来ましょうか?」

暖かいお茶を注いだ茶碗を奇人の前に差し出す。
それを奇人が受け取ったとき、僅かだが指先が触れた。
その指はとても冷たいように感じた。

「暖かいお茶は、身体が温まるな」

ふぅっと小さくため息をついて、奇人がことりっと茶碗を置く音が聞こえた。

「奇人様」
「いや、汁物は必要ない。今日は早めに休む事にする」
「ですが、とても手が冷たいように思えます。お酒を少し飲まれますか?身体が温まってよく眠れると思いますよ」

お茶だけで大丈夫だろうか。
雨で身体が冷えてしまっている状態では、自分がどれだけ冷たくなっているのか実感していないのだろうか。
特に日ごろ運動をしない人は、血行が悪い為、一度冷えてしまうと身体が温まるまで時間がかかるものだ。

「酒も必要ない、判断力が鈍る」

その言葉には少しだけ顔を顰めた。

「奇人様?もしかして、お仕事を持ち込んだりしていませんよね?」
「勿論だ」
「嘘ですね」

は奇人の言葉をすっぱり否定する。
声だけで人の疲れや感情を判断するはそういう事にとても鋭い。
目で判断できない事を判断する事が得意なのだ。

「どうして嘘だと言い切れる?」
「奇人様の声が嘘をついている声だからです」
「そうか…?」
「そうです」

は頷く。

「目が見えない分、声から感じられることに関しては鋭いつもりです。奇人様の声っていつも疲れてらっしゃいますよ。たまには早めの就寝をお勧めします。それから…」

は自分の両手で奇人の両手をぎゅっと握る。
主の手は大きな手なので、の手では覆う事などできないが、指先を包み込むように握る。
少し触れた時も思ったが、とても冷たい手だ。

…?」
「汁物もお酒も必要ないようでしたら、少しだけ手を温めますから、それから眠るようにしてください」

きゅっと血行が良くなるように握るだけでなく、ほぐすよう軽く握ったりゆるめたりする。筆を持っていることが多いのだろう、右指にはタコが出てきているところがある。

「手が随分と暖かいんだな」
「庖厨は火を使いますから、雨が降っても他の部屋よりも暖かいんですよ」

料理で使った火と、調理されたものの湯気が庖厨を暖める。
冬でも結構暖かいらしい。
下手に与えられた自分の部屋にこもるよりも、庖厨にいたほうが暖かい事もある。
ただ、昼間の良く晴れた日は暑くて仕方ない。

「お仕事なんかしては駄目ですよ?」

奇人はいつも疲れているのだ。
こう天気が良くない時は、なるべく早く休む事をお勧めしたい。
天気によって体調も左右されてしまう事もある。

「どうしてもというのでしたら、明日早めに起きて仕事をするようにしてください。今日は駄目です」

そう言い切るに、奇人はふっと笑みをこぼす。

「私にそんな事を言う女官は今までいなかった」
「そうですか?」
「この顔を前にして、まともに言葉を交わせる相手すら少ないからな」

大きなため息をつく奇人。
そこまで言われると、本当にどんな顔なのか気になってくる。
目が見えれば早いのだろうが、それは無理だろう。
しかし、顔を触らせてくださいなどどいう事はできない。

も、その目が見えていたのならばこのような態度はとってくれなかっただろうな」

その声はほんの少しだけ寂しそうだった。

「私の目は…」

が視力を失ったのは小さな頃だ。
昔、本当に小さな子供の頃は見えていた。
とある事がきっかけで視力を失ってしまったのだ。

「この目はもう元に戻る事がないと言われて、十年以上が経ちます」

目が見えないことに多少の不自由は覚えるが、苦痛ではなくなってきた。
もうこの生活にも慣れてきていた。

「ですから、私の目が見えていたのならばという過程の話は意味がないですよ。奇人様のお顔を拝見する事ができないのですから、奇人様相手にまともな対応ができなくなることなど一生涯ありませんから」

にこりっとは笑みを向ける。
そしてきゅっと奇人の指を握ってそっと離す。
指先も大分温まってきていたから、もう十分だろう。

「きちんと休んでくださいね、約束ですよ」

は茶碗を片付け始める。
くすりっと奇人が苦笑する声が聞こえた。

「そうだな」
「明日の朝、挨拶の声で確認しますからね」
「それでは早めに寝ないわけにはいかないな」
「勿論ですよ。私の耳は誤魔化せませんからね、奇人様」

かたりっとお茶一式の片付けが終わり、はお盆を持つ。
すすっと部屋の戸口まで行く。

「よぉく、お休みなってくださいね」
「わかっている」

奇人は、笑いながらそう答えた。
それが嬉しいと思えたのか、も笑みを浮かべながら部屋を後にした。

それは雷雨の日の出来事。
この日からは、雷雨がそんなに嫌いではなくなった。
悲しい思い出のある雷雨の日に、嬉しいと思える思い出が加わったから。