アズカバンの囚人編 68




は何も言えなかった。
何を言えるだろう。
生きる事のみを目標として逃げ続ける彼に、全てを覚悟しているだろう彼に。
恐らくピーターは、シリウスやリーマスの罵倒や呪いの言葉も受け入れる覚悟はあるのだろう。
それだけのことをしたと自覚しているはずだ。

「ピーター…」

ジェームズは辛そうに顔を歪めていた。

「…ごめん」

ぎゅっと自分の手をきつく握り締めているジェームズ。
何かを耐えるように、泣きそうなほどの辛そうな表情でピーターを見ている。

「どうして、君が謝るんだ?ジェームズ」
「だって、僕が君を更に危険な立場に置いた」

ポッター家を守る為の秘密の守人。
それを提案したのはシリウスだったが、ジェームズもそれに同意した。
ヴォルデモート卿にとって、盲点だろうと思ったから。
どこでその情報が漏れたのかは今は分からない。
それでも、ピーターを守人にすることで、ピーターを更に危険にさらしたのは確かだろう。

「君が結婚していることすらも、僕らは知らなかったよ」
「言っていなかったからね」
「それは、彼女が、ヴィア=マルフォイだったからかい?」

マルフォイ家は純血の一族で有名であり、あの人の部下であることもあの時代では有名なことだった。

「それもあるけれど、ヴィアはルシウスに狙われていたからね。多分、ヴィアと一緒にいた私のことも徹底的に調べられたんだろうね。だから、ああもすぐに私が守人だとバレたんだろう」

ピーターは静かに語る。
懐かしいことを思い出すかのように目を細めるピーター。

「ハリーの予言のことは少しだけ知っていた。だから、ジェームズ、君にこれ以上危険な目にあって欲しくないと思った。私たちのことを知れば、シリウスもリーマスも、黙ってなどいないだろう?それが嫌だったんだ」

友を巻き込みたくなかった。
その時のピーターは本当にそう思っていたのだろう。
学生時代を共にすごした、親友とも思える友人。

大切な友を傷つけたくなくて何も言わなかったピーター。
何も知らずに大切な友を任せたシリウス。

どちらが悪いなどとは言えない。
それは真実を知れば、そう思う人は多いだろう。

「それで何も言わなかったのかい?」

ジェームズの声はどこか震えていた。

「ピーター。今からでも、シリウスとリーマスに真実を言うべきだ。彼らなら…!」

ピーターは首を横に振る。
そんな資格は自分にはないのだと、ジェームズの言葉を否定する。

「もう遅いよ、ジェームズ。君を殺してしまったのは、私だ。彼らはきっと永遠に私を許すことはないよ」

シリウスとリーマスの怒りと憎しみを受け入れること。
それが今生きているピーターにできる精一杯のことなのかもしれない。
罪を償うなどいう選択肢などせず、辛い道を進む。

「理不尽だと思えるほどの僕のこの憎しみが、君に向かうようにね」
「え…?」

ピーターが強く睨んだのはの方だった。
は思わず声を上げてしまう。

「君には君の考えがあって、今ここにいるのだということは分かる。それでも、私は君にこの感情を向けずにはいられない」
「ペティグリューさん?」
「先を知り、不思議な力を持ち、ルシウスの試練すらも乗り越えて、君が生きていることが、私は何よりも許せない」

その眼差しに込められた感情の強さに、はその場から動くことができなかった。
怖いほどに真っ直ぐに向けられた感情。
その感情がに向けられるのが理不尽なものであることは、その感情の主であるピーターも頭では理解しているのだろう。
だが、ぶつけずにはいられない。

「先を知っているのならば、何故それを回避するための行動をしない?!他のものにはない力を持っているのならば、何故それをもって救おうとしない?!あの優しかったヴィアが殺されて、何もしない君がどうして生きていられるんだ!」

その言葉には泣きそうなほどに顔を歪める。
いつか誰かに言われるだろうと思っていた言葉。
覚悟しているつもりだった。
自分は先を知っているのに、先に起こる不幸を知っているのに、何もしようとしない。
役目だからと言い聞かせて、でも本音は知っている未来が自分の行動によって悪い方向に変わってしまうのが怖いから。

「それがどうした」

の肩にヴォルの手が触れる。
を守るように、支えるように、ヴォルはの肩に手を置き後ろに立つ。

「力があるならば何故救わなければならない?起こることを知っているからと言って、何故行動しなければならない?」

ヴォルの存在が恐ろしいのか、ピーターはびくりっと反応しただけで言い返しはしなかった。

「ブラックがアズカバンに戻ろうが、ポッターが死喰い人共に殺されようが、ダンブルドアの爺が殺されようが、俺にはどうでもいい。さえ側にいてくれるならば」

唯一の人、大切で守りたい人、変わりなどいない人。
この世界でヴォルにとってがいる事が世界であること。
それはきっとピーターにとってのヴィアの存在と同じようなものだろう。

「あ…あなたにはいても、私にはその存在がいない!だからこそ憎まずにはいられない!」

はヴィアと同じ立場にあった。
だからこそ、ピーターは許すことができないのだ。
ヴィアは亡くなり、だがはなんの障害を残すことなく今この場に存在している。

「でも、ピーター。先を変えることで起こる悲劇を想像できるかい?」

ジェームズは落ち着いた声でピーターに問いかける。

「例えば知っている誰かを助けることで僕のとても大切な人が亡くなってしまう可能性があったとしたら?最も大切な人が亡くなってしまう可能性がゼロでないならば、僕なら静観するだけに留めるよ」

先を知っている怖さというのはそこにある。
先を知り、その悲劇を起こさない為に行動したとして、その悲劇によって起こる事象はどうなるのだろう。

「ピーター。僕はね、ヴォルデモートに殺されたことをあまり後悔していないんだ」

驚いたようにジェームズを見るピーター。
も少し驚く。
ヴォルへの憎しみが見られないところから、今はヴォルデモート卿を憎んではいないだろう事は想像つくが、後悔をしてないとは思わなかった。

「リリーも巻き込んで、ハリーには重いものを背負わせてしまったけれど、お陰でヴォルデモートは今動けないような状態に追いやられた。勿論、生きれるものなら生きたかったさ。でも、僕の命があそこで終わってしまったことに、半分は満足しているんだよ」

は以前ジェームズに聞いたことを思い出す。
ジェームズは自分が殺されることを知っていた。
正確には死ぬ時期がいつであるかを知っていた。
それは先代の時の代行者が残した預言。
きっと覚悟はしていたのだろうと感じた。

「僕が殺されたことによって起こった事象、ヴォルデモートの失脚がなかったことになってしまったら、今のこの世界はなかったんじゃないか?僕のことだけに限らない、起こりうるべき先を変えてしまったから、きっとどこかで反動がくる」

それはも考えた。
ジェームズ達が無事であって欲しいと思った時、それが起こらなかったらどうなっていたかを考えると怖くなった。
生きていて欲しい、でも世界が変わってしまうのは怖い。

「分かってるよ、ジェームズ。頭の中では分かっているんだ」

頭の中では分かっている。
ピーターも理解はしているのだろう。
だが、感情はきっと別なのだ。
どうしても、どうしても、の存在を認めることが出来ない。

「分かっては…いるんだ」

を憎まずにはいられないほど大切だったヴィアの存在。
その大切な存在を失くしてしまったピーターの気持ちは、には分からない。
それほどまでに大切な存在をなくしたことがないから。

「それでも、私にとって一番大切なのはヴィアなんだ」

ピーターはゆっくりと顔を俯かせる。
を真っ直ぐ見ずに顔を伏せる。
さくりっとピーターが1歩後ろに下がる音が聞こえた。
それは草を踏みしめる音。
はそれを止めようとはしなかった、いや、止められなかったのかもしれない。

「行くんだね、ピーター」

生きるためだけに、ヴィアの願いを叶えるだけのために。

「止めるかい?ジェームズ」

その言葉にジェームズは首を横に振る。
もうすでに亡き人であるジェームズは、自分でこの世界にあまり関わろうとしてない。
この世界のことは、この世界に生きている者が動くべきだというのがジェームズの考え方なのだから。

「時が…、君の心を癒してくれるのを祈っているよ、ピーター」

ジェームズは悲しそうに友の姿を見る。
ピーターは少しだけ顔を上げて、泣きそうな笑みを浮かべた。

「私の心は癒される資格などないんだよ、ジェームズ」
「それでも。それでも…、君は生きているんだ、ピーター」

ただ生きているだけの生き方はして欲しくない。
かつての友、ジェームズを裏切った友。
だが、そこにあった真実は悲しい、とてもとても悲しい真実。

「生きているのならば、幸せを感じて欲しいんだよ」

自分は生きていないから、せめて友には幸せを感じて生きて欲しい。
学生時代を楽しく共に生活した親友。

「君は優しすぎるよ、ジェームズ」

ピーターのその声は小さな声だった。
その言葉を最後に、ピーターの姿がするりっと小さくなる。
縮まったその姿は、すぐにその場を駆け出した。
傍目にみれば可愛く駆けるその姿は、とても悲しい背中であったかのように見えた。

ジェームズはしばらくピーターの去っていった先を見ていたが、くるんっと振り返ってににこりっと笑みを向けた。

「ありがとう、
「え?」

何故お礼を言われるのか一瞬分からなかった。
そして思い出す。
ジェームズがピーターの真実を知りたいと言っていたことを。
ピーターの真実を知る機会をくれてありがとう、と言いたいのだろう。

「いえ…、私は殆ど何もしていませんでしたし」
「それでもありがとう。んじゃ、僕はそろそろ戻るから」

いつものように明るい笑顔と明るい口調でジェームズはふっと消える。
ジェームズはピーターの真実に何を思い何を考えたのだろう。
悲しすぎる真実、これは他の人に言っていいものか。

― 何もしない君がどうして生きていられるんだ!

に向けられたその言葉。
それはとても切なくて悲しくて、には痛い言葉だった。



ふいに聞こえてきたヴォルの声が、思ったよりも近くで聞こえて思わずびくりっとなる。
すぐ後ろにヴォルがいるのは分かっていたのだが、何故かそれすらも忘れてしまいそうになっていた。
ヴォルはの正面にまわり、正面からを抱きしめた。
突然の温もりに驚く

「ヴォル…さん?」
「泣きたい時は泣け」

を抱きしめているヴォルの腕はとても優しい。

「泣きたいならば遠慮せずに泣け。我慢しているのを見ている方がつらい」
「何言って…」


ヴォルの左腕は腰に、右手は後頭部に、ヴォルの顔はの肩にうづめるようにしっかりと抱きしめられる。
その温もりにどこかほっとする。



耳に響くその声に愛しさが含まれていて、暖かな気持ちになる。
その暖かな気持ちに包まれていると、じわりっと涙が溢れてくる。
ピーターからぶつけられた言葉は、いつかきっと言われるだろう言葉だと覚悟はしていた。
言われている言葉は本当で、自分は先を知りながら何もしない。
ジェームズもヴォルものそんな行動を非難したりしない。
それでも、やっぱり、何もしない自分を自分自身が責めている部分がある。

「ヴォル、さん、私…」

ぼろぼろっと涙が零れてくる。
分かっていても、それが事実であると頭で理解していても、実際言われるとここまで辛い。
頭で分かっていても感情がついていかない。
それはピーターも同じだったのだろう。
感情がついていかないから、にあんなことを言ってきた。

「俺は…、が無事で、側にいてくれればそれでいい」

ヴォルはの瞳から零れる涙を、指で拭い去る。
ぽろぽろ零れてくる涙はそれでも止まらない。

「ずっと側にいてくれればそれだけでいい」

は抱きしめてくるヴォルにしがみつくようにして泣く。
ずっと側にいてれればいい、それがヴォルの願い。
側にいたいと思っていても、きっとずっとずっとは側にいられないことはには分かっている。
いずれ別れが来るのだということは分かっている。
それは時の代行者としての妙な確信。
それでも、今この時は、この暖かな温もりに癒して欲しかった。
零れる涙を受け止めてくれる、そのものの存在を受け止めてくれている、ヴォルの側にいたいと感じていた。