―人は五感を持つ、君が持っていないのはその1つだけだよ。大丈夫、君になら出来るよ。

そう言って優しい言葉をかけてくれた人は、私にとっての恩人のような人。
視界のふさがれた状態の私に教えてくれた事は、たくさんのこと。

私は、貴方のその言葉をずっと覚えています。
目が見えなくなって、絶望すら感じたあの時の希望となった言葉だから。
普通の生活がおくれなくなるわけじゃない。
他の感覚で補う事が出来る。

目が見ないことは些細な事だと思えるようになったんです。
そして、どんな時でも前向きに考える事ができるようになりました。
今でもとても感謝をしています。




瞳の中に眠るもの 01





少し癖のある黒い髪を上できゅっとまとめ、目を閉じたまま顔を上げて大きな邸の前に立つ少女、いやもう女性と言っていい年齢だろう。
名をと言う。
彼女の目はいつも閉じられたまま、目の前にある光景を移す事がない。
幼い頃、まだこの国が荒れていた時代のこと。
その時に視力を失ってしまった。
それ以来、のその瞳が開かれる事はない。
目を開いても何も見えない、そこにあるのは暗闇だけだ。


「ここ、よね?」


確認するように呟いても、聞いた道をたどってきただけにしか過ぎないには確認のしようがない。
聞いた道順通りに辿ってきただけなのだ。

「もう、見えないって本当に不便ね」

ふぅっと小さくため息をつく
その仕草は盲目である事を忘れさせるほどの自然なものだ。
ふとは誰かが邸の中から出てくるのに気付く。
目の見えないは人が近づくを悟る為に、周囲の気配を常に探っている。

さんでいらっしゃいますか?」

邸から出てきた優しげな口調の主はを知っているらしい。
声からして、老人とも言っていい年齢の方なのだろうか。
を知っているのは、おそらく紹介が行っているのだろう。

「はい、私がです」
「お待ちしておりました。どうぞ中へ…。手は必要ですかな?」
「いえ、前を歩いていただければ十分です」

はにこりっと笑みを見せる。



盲目であるは現在1人暮らしである。
両親を早くに亡くし、とある人のお世話になっていたのだが、やはりいつまでも迷惑をかけられないという事で仕事を紹介してもらって、1人で暮らし始めた。
1人で暮らし始めたはいいのだが、盲目である事が予想以上に足を引っ張った。
目が見えなくても普通以上の働きをする自信はあるのだ。
だが、周囲はそう見てくれない。
女性なのだから誰かに嫁にもらってもらえばいいのだが、盲目という足枷をつけた女を好きこのんで娶る男はいなかった。
その為、は1人身でせこせこと今までがんばってきたのである。
短期の仕事をこなし、なんとか食べてきた。
そしてこのたびようやく、全商連の紹介で長期の仕事が舞い込んできたのだ。

黄東区にあるとあるお邸で、女官を探しているとの事。
条件はただ一つ。
どんなものを見ても動揺をせずに仕事をこなす事が出来る事。
仕事の出来不出来は問わず、である。
まさにのためにあるような仕事である。
見ようと思っても何も見えないのだから、どんなものがあろうと動揺などするはずもない。
その仕事に飛びついたはあっさりと仕事が決まったのだ。

「仕事はどんなお仕事ですか?」
「たいした仕事ではございませんよ。このお邸の主が帰宅された際にお茶を入れていただくだけです」
「え、お茶…?」
「お茶の入れ方でしたら、庖厨にいらっしゃる方が教えてくださいますよ。好みの葉も教えてくださいますよ。ただ、葉の種類が多いですから、最初は覚えるのが大変かと思いますが…」
「あの、ちょっと待って下さい」
「はい、なんでしょう?」

お茶を入れるだけなら確かにたいした仕事ではないだろう。
それくらいはでも出来る。

「本当にお茶を入れるだけが仕事なんですか?」
「はい、そうですよ」

おかしい。
ものすごくおかしい。
何故この邸の主にお茶を入れるだけの仕事に、募集をだしたりしているのだろうか。

「とても素朴な疑問なので、失礼に思いましたら答えて頂かなくても構いませんが…、どうしてお茶入れだけに人を雇うのですか?」

それも給金は随分いいものだった。
ただお茶を入れて出すだけの仕事とは思えないほどに…。
妙な条件はくっついていたが。

「疑問に思うのも当然のことでしょうが、あの条件を満たす方というのが本当に少ないのですよ。条件を満たしていても他の良い邸の専属であったり、良家縁の方だったりと…」

どんなものを見ても動揺しないという条件をつけるということは、そんなにとんでもないものを見る事になるのだろうか?
生きているものならば気配で捉える事が出来るだが、何かおかしな動物を飼ってでもいたら、それに驚かないと保障できない。

「主様の部屋に誰かがいるわけでもありませんし、何かがいるわけでも御座いませんよ、さん」
「それならばどうして…?」
「私の口からは申せません。主様は相当気にしていらして、百合姫様の時も…」

ふぅっと大きなため息が聞こえる。
そこまで言われてしまってはも深く聞くことなどできない。
とにかくをお茶を入れて出せばいいのだ。
どんなにぎょっとしたものがあろうとも、それが見えなければ意味がないならば大丈夫だろう。
は前向きに考えるようにしようと思った。



邸には住み込みである。
の本来の住まいは貴陽の紅南区の外れにある。
小屋と言ってもいいほどの小さな家なので、しばらく帰らなくても盗まれて困るようなものなど置いてない。
そして仕事だが、お茶を出す機会というものは案外早くやって来た。

「黄、奇人…様というのですか?」
「随分と変わった方なのよ。その姿を見れば分かると思うわ…って、ごめんなさい。は目が見えないのよね」
「いえ、構いませんよ。見た目が、変わっているということですか?」
「ええ…」

庖厨でお茶の入れ方を教えてくれたのは、この邸にかなり長く勤めているという女性だった。
彼女はもっぱら料理を担当しているのでこのお茶くみをしたことはないらしい。
彼女、花蓮はよりも5つほど上で、すでに旦那様と子供がいるらしい。
旦那さんはこの邸の警備を担当しているとの事。

「奇人様は10日に一度くらいは仕事が忙しくて朝廷の方に泊まってくる事があるわ。それがいつかは分からないけれども、その時がのお休みの日になるわね」
「でも、仕事がこれだけでは、毎日がお休みのようなもののような気がするのですが…」
「それなら、お茶出しに慣れてきたらこっちも手伝ってもらうわ。って目が見えないとは思えない手つきなんだもの」
「見えないことにはもう慣れましたから」

一度通った道は空気と方角で覚える。
一度来た部屋は感覚とじかに触れて覚える。
人の気配だけでなく、動いているものならば感覚で分かる。
目が見えなくても、他の感覚を働かせれば十分に動けるのだ。

「それでは、行ってきます」
「行ってらっしゃい、

にこりっとを笑顔で送り出してくれた花蓮。
はすっとなれた足取りで、教えられた道をすすっと迷わず歩く。
本当に盲目とは思えないほどの綺麗な歩き方なのだ。
周囲はそれを感心したように見るが、にとってはこれがすでに当たり前になっている。
気配で周囲の人の位置を捉え、道や物は一度触れたら忘れない。
人並みになるために、それが当たり前になるように努力をしてきたのだ。

「失礼いたします」

廊下で声をかけてから、部屋の中に入る。
部屋の中に誰かがいるのが分かる。
そしてその気配の主がこちらを見たのも分かる。
には見えないが、この邸の主である。

「お茶をお持ちいたしました」

は彼の側にあるだろう卓の所に向かう。
部屋にあるだろうものの配置はあらかじめ教えてもらっていた。
それでも違っていた場合はお茶をぶちまけてしまいかねない為、少しだけ慎重に歩く。
どうやら特に家具等の移動はないようで、思った場所に卓がちゃんとある。
ことりっとお茶一式を置いて、茶碗にお茶をそそぐ。

「新しく入った女官か」

主である彼の声を初めて耳にする。
心地よく耳に響くとてもいい声である。

「はい、と申します」

はすぐに礼の形を取る。
礼儀作法も最低限のものは身についている。
これはお世話になった人の奥さんがきっちり叩き込んでくれたのだ。

「その目は…盲目か」
「はい。ですが、人並みの仕事はできると自負しております」

はそれを自信を持って言える。
目が見えないからと言って、何もできないわけではない。
やろうと思えば人並み以上のことだってできるのだ。

「聞いていると思うが、私の名は黄奇人だ」
「はい、奇人様」

邸の主の名を聞いた時にはおかしい名だと思ったものだ。
だが、仮にも雇い主の名前がおかしいと面と向かって言うわけにはいかない。
奇人がことりっと茶碗を置く音が聞こえた。
が入れたお茶をちゃんと飲んでくれたらしい。

「3日後は仕事で遅くなるだろうから必要ない」
「え…?」
「だが明日は今と同じ時間くらいで構わない」

一瞬何を言われているかわからなかったが、はすぐににこりっと笑みを浮かべる。

「はい、かしこまりました。明日も同じ時間にお茶をお持ちしますね」

どうやら主である奇人が認めてくれたようだ。
内心ほっとしながら、は茶器を持って部屋を辞す。

しかし、見れば動揺する何かというのが何なのかがさっぱり分からなかった。
目が見えないには分からないだろう。
黄奇人は普段仮面をしており、自室に戻ったときのみ仮面を外す。
その素顔を見たものは、あまりの美しさに見惚れて仕事にならない。
見えないは、それが全く分からないのだ。