― 朧月 10




由紀はクロロを置き去りにして、さっさとリーディスから『朧月』に戻っていた。
帰ることは言ってあったので平気だろうと思っていた通り、やっぱり平気だった。
ケータイにメールが入っていたのだ。

―何か面白い本が手に入ったら、また連絡する

これでは普通の友人付き合いのようだ。
由紀はそれで十分満足なのでいいのだが、”手に入ったら”の部分がちょっと気になった。

まさか、その面白い本は盗品とかだったりしないよね。

否定できないような気がして、このメールについて深く考えるのはやめにした。
クロロについては深く追求すべきではない。
なにしろ、正体が正体なのだから。

「マスター、ドゥール氏に連絡取れましたよ」

『朧月』に並ぶ本の種類を整理していた由紀に、ミスティが声をかけてきた。

「あ、本当に?どうだって?」
「交渉したところ、快く譲ってくれるそうです。多少値は張りますけどね」

苦笑しながら答えるミスティ。
ぱぁっと由紀の表情が明るくなる。
実はこのドゥールと言う人が由紀が欲しいと思っていたものを持っていたのだ。

「『御坂のお悔やみ』に出てきた宝石がまさか実在するなんて思ってなかったら、絶対に欲しいって思ってたんだよね!どのくらいで譲ってくれるって言ってた?」
「1000万って所でしょうか?ちょっと高いですが、宝石の価値が結構なものなので妥当なところでしょうね」

『御坂のお悔やみ』は普通の創作小説で、推理小説に分類される類のものだろうか。
それにとある宝石が登場するのだが、その宝石が実在すると最近分かったのだ。
実在しているのはいいのだが、値が値だ。
もうここまでの値段になると、由紀には感覚がさっぱりだ。
引き受ける仕事も念が絡むとかなり報酬が上がる。
本一冊400ジェニーとかなんてかなり安いものだと思えるほどに、だ。

「最近ちょっと金銭感覚がおかしくなってきてちょっと怖いかも…」
「大丈夫ですよ、マスター。また仕事をちょろちょろっと引き受ければ、1000万などすぐたまります」
「ペット探して300万とか出す人いるしね」
「ですが、ハンターが狙うほどのペットともなると探すのは危険ですしね」

念を使えるということで、予想以上に舞い込んでくる仕事の報酬が大きい。
ハンター資格でも持っていればもっと良い仕事が回ってくるのだろうが、今の所由紀はハンター試験を受けるつもりはない。

「ドゥール氏は現金での受け渡しを指定しています。日時は今日でもいつでも構わないそうですよ」
「1000万すぐに用意できそう?」
「大丈夫ですよ、マスター。ですが、ドゥール氏の裏での評判はあまりよくありませんので、何か仕掛けられたら張り倒してきて構いませんからね」
「え?でも、一応正式な取引でしょう?」
「その正式な取引が通用しない相手でもありますから。お金だけ奪われそうになった遠慮なく念で脅して構いませんからね」

寧ろそうしてきてください、とミスティの目が語っている。
由紀は苦笑いを浮かべながらそれを了承した。
一見普通の女にしか見えない由紀が舐められてしまうのは仕方ないことであると、由紀は思っているのだった。



ドゥール氏の屋敷に1人で向かう由紀。
リーディスに行ってからというもの、朧月の記憶が少しずつ戻ってきている事を、ミスティには言っていない。
戻った記憶はまだ少ない。
中途半端にミスティに期待を持たせたくない。

せめて、朧月と同等の力を持ってからの方がいいと思うんだよね。

ドゥール氏の屋敷の一室に案内された由紀は、現金をつめたケースを手に少し緊張する。
座りごごちが良さそうなソファーに座っているドゥール氏は、横に体格が大きいにこやかに笑ったおじさんに見える。
後ろに控えるいかつい顔をした男2人がいなければ、ドゥール氏は人の良さそうなおっさんにしか見えないだろう。

後ろの2人、念能力者だ。

ぱっと見て瞬時に判断する由紀。
見た感じ、どうにかなりそうだと判断して特に問題視はしなかった。

「初めまして、ドゥールさん。私が由紀・椎名です」
「こちらこそ初めまして、由紀さん。まさか『暁の夕焼け』を欲しいといわれる方が、こんな可愛らしいお嬢さんだとは思いませんでしたよ」

その言葉に曖昧な笑みを浮かべる由紀。
可愛らしいと言われても、由紀はもう20歳だ。
この世界に来た時は17だったが、もうあれから3年も経つ。

「お金はこの通り、即金で1000万です。確認してください」

ぱかりっとケースを開き、札束を見せる。
現金を見て、一瞬ドゥール氏の目の色が変わる。
ミスティの忠告通り、気をつけたほうがいいかもしれないと由紀が思った瞬間だった。
由紀が座っている場所に”何か”が来る。
背後からの気配に、由紀はばっとソファーから飛びのく。

ばんっ!

由紀の座っていたソファーが見事に弾け飛ぶ。
ドゥール氏の後方に控えていた男の1人が何かしたらしい。

「おや、お嬢さん。少し護身術の心得でもあるのかな?すばやい動きだ」
「ありがとうございます。でも、ちょっと現金持ち逃げってのは取引の違反になると思うのですが…」
「素直にこんな大金を持ってきたお嬢さんが悪いんだよ。知らない人には気をつけないと駄目だよ」

にこやかに微笑むドゥール氏だが、目はまったく笑っていない。
由紀はちらりっと室内に目を走らせるが、目的のものは見当たらない。
この屋敷の中にあるのはミスティの事前調査で分かっている。
なるべく穏便に行きたいものなのだが…。

「私、あまり戦闘は好きじゃないんです…よね」

ぶわっと由紀は念を纏う。
由紀は朧月のこともあるのだが、念の絶対量が多い。
普通に念能力を使う分ではここまでのことはしないのだが、相手を威圧するだけなら全力で錬をするのが一番。

「ドゥール…さま。…俺達では彼女に…敵いません」

冷や汗を流す念能力者である2人の男。
ドゥール氏は由紀の念に圧倒されて声も出ないようだ。
ちょっとやりすぎたかな、と思い由紀はふっと念をすぐに引っ込める。

全力の錬はあんまり長く続かないんだよね。

ふぅっと由紀が小さくため息をついたから安心したのか、2人の男とドゥール氏は大きな息をついた。

「お嬢さん、見かけによらないね」
「そうですか?えっと、一応知り合いに踏み倒されそうになったら、脅した方がいいってアドバイスもらったもので…。ドゥールさんの噂はあまりよい噂ばかりではないって聞きましたし」
「おやおや、正直なお嬢さんだ。その甘さはこういう取引には向かないよ」
「こればっかりは性格ですし。でも…」

由紀はにっこりと笑みを向ける。

「知り合いのおかげで普通の強さ程度の人なら、殺さず捕らえる事とかってそんな難しくないんですよ」

ミスティに強力な自白剤を手に持たされたときはちょっとぎょっとしたが、ここはこういう世界なのだろう。
となれば開き直って適応するしかない。
捕らえることができるのならば、あとは吐かせればいいだけ。

こういう物騒な思考が普通にできるようになったあたり、この世界に適応しちゃってるんだよね…。
ちょっと元の世界に戻ったときに思考矯正しないと駄目かも。

「仕方ないな…」

ドゥール氏は大きくため息をついて、背後の男の1人に目配せをする。
男は部屋から出て行ったので、恐らく『暁の夕焼け』を取りに行ったのだろう。
ドゥール氏の表情は渋いままだ。
しばらくすると男が戻ってくる。
その手には小さなケースと、ケースの中に深紅の小さな宝石のついたリング。
丁度由紀の手首に嵌るくらいのリングだ。

「ありがとうございます」

男がそれを差し出してくれたので、由紀は笑顔でそれを受け取る。
ドゥール氏に向き直り、取引のお礼を一言言って、部屋を出ようとする。
部屋の扉に手をかけた瞬間、殺気を感じ取り由紀は『駆け抜ける凪の刀』を具現化する。
ひゅっと身体を横にずらし、振り向いて刃を相手にぴたりっと向ける。

「……」
「何かほかに用でもありますか?」

攻撃を仕掛けてきたのは男の1人。
その攻撃を由紀はさっとかわして、刀を突きつけた。
ドゥール氏がちっと舌打ちするのが見えた。

油断できない人だな…。

由紀はぺこりっと1度頭を下げてから、今度こそ部屋を後にした。


ドゥール氏の屋敷は思ったよりも広い。
大きな屋敷から出て、門に向かいながら由紀は大きなため息をつく。
ぎゅっと手に入れた『暁の夕焼け』を握り締める。
失くさないように、腰元にある少し大きめのポーチにしまっておく。

「うう、緊張したよ~」

ドゥール氏の前では平気そうにしていた由紀だったが、実際は緊張で心臓がバクバクだった。
表情にでなかったのは緊張のあまり表情が変化しなかっただけだ。
にこりっと笑みを浮かべる事ができただけでも、自分を褒めてあげたい。

「でも、手に入ったからよしとするかな」

うんと頷き、満足そうに笑みを浮かべる由紀。
ドゥール氏の屋敷から門までは随分と距離があり、普通に歩いていると時間がかかってしまうが、門から出たらちゃっちゃと念を使ってしまおうと思った。

朧月が使ってた移動の能力をためしてみたいし。

元の世界に戻るためには、移動の能力を使えるようにならなければならない。
実はもう能力は開発済みで、物の移動は実験で成功済みだった。
物と人とだとまた違うため、やはり自分で使ってみなければ分からないので、機会があれば使おうと思っていたのだ。

「急ごう!」

ようやくたどり着いた門に手をかけた由紀だが、その動きがぴたりっと止まる。
ぞわりっと背後に嫌な気配を感じたのだ。
背後に誰かいる。

「ねぇ、君。あの屋敷から出てきたよね?」

声をかけられてびくりっとなる。
声さえかけられなければ、そのまま過ぎ去るまで知らないふりをしたいと思っていた。
動きを止めた時点で、気づいたと知られてしまっているだろうが。

「返事くらいしてよ。耳が聞こえないわけじゃないんだろ?」

聞こえないわけじゃないけど、ここで答えると物凄く嫌なことになりそう。
でも、答えないとやっぱり嫌なことになりそうだし。

由紀は諦めて振り返る。
相手の姿は月が相手の背後にあるため、逆光で見えない。
影と声から青年だろうことは分かる。

「確かに私はあの屋敷から出てきましたけど、ただの客人なので何か聞かれても答えられませんよ」
「え?そう?う~ん、困ったな。見つからないのあれだけなのに」
「用がそれだけでしたら、私はもう行ってもいいでしょうか?」

ずりずりっと後ずさる由紀。
勘がこの人には関わっていけないと言っている。

「本当に知らない?『暁の夕焼け』」

ぎくっとなる由紀。
こういう時は表情に出やすい自分の性格を恨みたくなってしまう。
青年がにこりっと笑みを浮かべた気がした。

「なんだ、やっぱり知っているんだね」

逃げたい、逃げたいーー!
何なの?!この人ー!

「シャル、何をやってる?」
「あ、団長」

気配が増えた。
しかし、由紀は聞こえた言葉に固まる。
聞き覚えのある声。
トーンは違っても、つい最近まで一緒にいた人の声だ。
聞き間違えるはずもない。

ま、まさか…、まさかとは思うけど…。

「『暁の夕焼け』だけが見当たらなかったんだけど、そこにいる子が持っているみたい」

2人の視線が由紀に集まる。
その視線が向けられるまでの時間が、異様に長く感じた。
実際の時間は一瞬。
だが、時が止まったように静かになった気がした。

由紀…?」

名を呼ばれてびくっとなる由紀。
その声はやはり間違いなんかではない。

うっわー!もう、今日は絶対に厄日だ!
何で、よりによって幻影旅団と鉢合わせー?!