ひだまりの君 03



部屋の中に響くのは、ぱらりっと書類をめくる音と、カリカリっとペンを動かす音だけだ。
しんっとした室内は狭いわけではなく、だが大半が書類によって場所を占められている。
陽菜はぺらぺら書類をめくる手をとめ、ちらりっとヴィシュレルを見る。
書類整理を手伝い始めて、また分かったこと。
”ここ”の文明は、思っているよりも遅れている。
ペンはインクをつける羽ペンを使い、パソコンなどコンピューター機器は全くなく全ての書類は手書き。

(本当に異世界、なのかな…)

陽菜がどうしてここに来てしまったのか、ここはどこなのか、詳しい事を聞くにも長文の英語を理解できるか自信がない陽菜としては、それを知るのはまだ先になりそうである。

「どうしましたか?ヒナ」
「あ、え…えっと…」
「休憩しましょうか」

にこりっと笑みを浮かべるヴィシュレル。

「ディスティドール」
「了解。一式持ってくるよ」
「頼みましたよ」

ヴィシュレルに言われて、じっと大人しくしていたディスティドールはその場からぱっと姿を消す。
ディスティドールの姿が消えたのを見て、陽菜は思わずびくりっとなってしまう。
仕事の休憩時間の時にお茶やお茶菓子を持ってきてくれるのは、ディスティドールなのだが、その姿が突然消えたり現れたりするのだ。
ヴィシュレルが驚きもせず平然としていたので、きっとここではそれが当り前なのだと思うようになったのだが、やはり驚くものは仕方がない。

「今日は少し長めの休憩にしましょうか、ヒナ」

どうぞ、とソファーに座るように促される。
長めの休憩を取る理由が分からず、首を傾げながらも促されるまま座る陽菜。

「法術の説明をしていませんでしたからね、今日はその説明を簡単にしましょう」
「法術?」

ヴィシュレルはゆっくりと陽菜の向かいに腰を下ろす。
動作の一つ一つが綺麗で思わず見とれてしまいそうになる。
ヴィシュレルが丁度腰を下ろしたと同時に、ディスティドールがお茶とお茶菓子を一式持って部屋に現れた。
ディスティドールが持ってくるのはいつも2人分、ディスティドールの分がない。
陽菜はそれを不思議に思ったことがあるのだが、ディスティドールはヴィシュレルを”マスター”と呼ぶので、主人と同じ場所で飲食をする事が出来ないという事なのだと思うようになっている。
もしかしたら、別の理由もあるかもしれないが、それは今の陽菜には分からない。

「実際見た方が早いでしょうか…、輝き灯せ紅き炎

すっとヴィシュレルが右手を差し出し、その右手のひらの上にぽっと炎がともる。
炎の大きさは蝋燭の炎程度のもので、火力はそう強くはない。
陽菜はぱちぱちっと瞬きし、今何が起こったのか理解できないでいる。

「やはり、ヒナは法術を知らないようですね」

ふっとヴィシュレルの手の中の炎が消える。

「この世界には先ほどのように呪文などで、自然の力などを使う方法が存在します」
「自然のちから?」

魔法みたいなものだろうか、と陽菜は思う。
自然の力と言われても、法術がどういうものか想像が出来ない。

「ディスティドールが消えたり現れたりする事ができるのも法術ですよ」

陽菜がディスティドールの方を見れば、ディスティドールは陽菜ににかっと笑みを見せる。

(魔法と超能力を足したような感じなのかな?)

魔法がどういうものかと聞かれても、物語の中にしか存在しないようなものなので陽菜に説明ができるはずもなく、かといって超能力の定義も分かるわけではない。
しかし、陽菜の知っているものの中で法術に一番近いイメージがその2つだ。
そこで、ふと思いつく。

「もしかして、私がここに来たのも?」
「ええ、そうです。法術で私が喚んだのですよ」
「ヴィスが?」
「正確には私が使おうとした未完成の法術陣が発動して、それにヒナが導かれたのですけれどね」

良く分からず陽菜は首を傾げる。
それにヴィシュレルはくすりっと笑う。

「法術は先ほどのように呪文で発動するものと、陣…円の中に文字を書き込みそれを構築式とする法術陣で発動するものと2種類があります」
「私がここに喚ばれたのは、”法術陣”を使った?」
「ええそうです、よく分かりましたね」
「え、だって、召喚とかって空間を飛ぶって言うか、ものすごく難しそうな感じだから、やっぱり呪文とかだと長くなるだろうし、そうすると先に法術陣?で正しい理論を構築しておいた方が失敗ないだろうって思ったから」

陽菜の言葉にヴィシュレルは心底驚いたような表情を浮かべる。
その反応に陽菜は慌てる。

「え?え?な、何か変なこと言った?」
「いえ、ヒナの考えで正解ですよ」

少しだけ嬉しそうに見えるヴィシュレル。

「法術を使うには”法力”という力が必要です。法力は命あるものすべてに宿る生命力と似たような力と考えていいと思います」
「それじゃあ、私にも使えるの?」
「正しい手順を踏めば使えますよ。やってみますか?」

こくりっと頷く陽菜。
自分で使う事が出来れば、法術がどういうものかきちんと実感できる気がする。

「ヒナ、両手を」

陽菜は言われるまま両手をヴィシュレルに差し出すように伸ばす。
ヴィシュレルは陽菜のその両手に自分の手を添える。
ヴィシュレルの手が触れて、陽菜は一瞬どきっとする。
だが、触れたヴィシュレルの手が少し冷たいのは意外だと思った。
優しそうな笑みを浮かべ、陽菜の前では穏やかな笑みを絶やさない人なので、手も暖かいものだと思っていたのだ。

「私の呪文をそのまま復唱して下さい」

こくりっと再び頷く。
触れるヴィシュレルの手が熱を放ち始めたように感じた。

「古からあり続ける優しき光よ」
「古からあり続ける優しき光よ」
「我が手に集いて輝きとなせ」
「我が手に集いて輝きとなせ」

ヴィシュレルの手から伝わる熱が陽菜に伝わり、その熱が両手の間に集まっていく感覚がする。
ぽうっと小さな光がともり、その光がだんだんと大きくなる。
大きさは野球ボールくらいの大きさとなり、白い光を放ち輝く。
ふよふよと浮く光の珠。

「簡単な明かりの呪文ですよ」
「…すごい」

自分の掌の中に浮かぶ光に、陽菜は思わず見入る。
ふよふよと浮かぶ光。
電気なしで、光があるのは少し違和感がある。
だからからか、ここが異世界であるとすとんっと実感できる気がした。
陽菜のいた現代と違う所は多くあった。
それでも、こうして魔法のような”法術”の存在を目の前で見せられてしまうと、ここは自分のいた世界と違う世界のだと思わざるを得ない。
陽菜のいた世界には、こんな魔法のような力は存在していなかった。

「あの、ヴィス…」
「はい」
「これ、どうやって消せばいいの?」

暫く、ふよふよと浮かせていたのだが、陽菜がこの光を灯したのはヴィシュレルの呪文を復唱しただけなのだ。
消しかたなど分かるはずもない。
ヴィシュレルはその言葉にくすくすっと笑う。

「法力の供給を止めればいいいのですが、ヒナには法力の感覚はまだ分かりませんよね」

法術を使う為には法力が必要で、陽菜がこうして法術を発動しているという事は陽菜に法力が存在していることになる。
だが、生まれてこのかた、法力などというものを意識した事がないのでコントロールなど、陽菜にはできない。

「強制的に法術を終了させ……」

ぴたりっとヴィシュレルの表情が止まる。
穏やかな笑みを浮かべた表情から、驚愕の表情へそれは変わる。

「ヴィス?」

何かあったのだろうか?と陽菜は首を傾げるが、自分の中で何かあふれ出る感覚がした。
どくんっと大きく心臓の音が身体に響く。
その音に反応するように陽菜の身体がぴくりっと揺れる。
陽菜の手の間にある光がだんだん大きくなっていくと同時に、陽菜の両手が小さく震えだす。

(え?な、何で?)

手だけでなく、身体も小さく震えだす。
寒くもないのに震える身体に、陽菜は何が起こっているのか分からない。
目の前の白い光が大きくなっていくのをただ見ているだけだ。

「ディスティドール!」
「全てを包む優しき闇、広がりし光を諫め、その闇を広げよ!時と時の狭間、過ぎゆく風、静かなる水、阻みしものを創りたまえ、輝く光の源たる力のもとに!」

ばっとディスティドールが両手を広げ、ぶわっと広がるのは薄い水色の膜。
ヴィシュレルは陽菜との間にあったテーブルを飛びこえて、陽菜の身体を覆いかぶさるように抱き締める。

(え?え?!えええ?!)

状況がさっぱり分からない陽菜は、混乱しつつも突然抱きしめられたことで反射的にヴィシュレルの腕から抜け出そうとするが、身体に全く力が入らない。
動かそうと思っても身体に力が入らず動かせないのだ。

「溢れし力、静かなる闇の元にその怒りを鎮めよ」

呪文なのだろうヴィシュレルの声が、陽菜の耳元でささやかれるように紡がれる。
抱きしめられ、耳元で呪文とはいえ言葉をささやかれ、陽菜はかぁぁっと顔が赤くなるのを感じた。
身体に力が入らずとも、恥ずかしいという反応が顔に出てしまうのは止められない。
とくんっと小さく心臓の音が身体に響く。
身体や手の震えもだんだんと収まっていく。
先ほどのヴィシュレルの呪文のお陰だろうか。

「落ち着いた?」
「ええ、収まりましたね」

ディスティドールの問いかけにヴィシュレルが頷く。
陽菜の身体にはまだ力が入らない。
だが、何かが溢れ出るような感覚は無くなっていた。

「にしても全然気付かなかった。イディスセラ族並だ」
「今まで法術がない所にいた為に、法力が無意識に抑え込まれていたのでしょう」
「それがさっきの明かりの法術で解放されたってわけか」

何の話か分からない陽菜は、ヴィシュレルに抱きしめられたまま首を傾げるだけである。
ヴィシュレルがゆっくりと陽菜を開放し、陽菜は自分の背中をソファーの背もたれに預ける。

「大丈夫ですか?ヒナ」

身体に力が入らない以外は異常がないのでこくりっと頷くだけに留める。

「ヒナの法力は驚くほど強大です。どうやら、私の法術陣の構築は間違っていなかったようですね」

ふっと浮かべたヴィシュレルの表情は自嘲気味の笑みだった。
何故そんな表情をするのか陽菜には分からなかった。
少しだけ悲しみが含まれた笑み。
陽菜はこの世界の事だけではない、まだ、この目の前の綺麗な青年の事も良く知らない事に今更気づくのだった。


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