WOT -second- 49.5
― シュリへと嫁がせる姫は賢い姫がいいと思うんだが…なぁ、クルス
何気ない家族の会話で零れたエルグの言葉が、クルスの頭の中から離れないでいた。
毎日ではないが、なるべく夕食は家族で取るようにしている王族一家。
家族3人で取れればいいだろうに、しつこくクルスも誘ってくるのは、彼ら3人共だ。
食事など1人だろうが4人だろうがそう変わらないと思っているクルスにとっては、それを断っても何も困らないのだが、最近はよく付き合っている気がする。
そんな場で零れた一言だった。
(分かってるよ、国同士の結びつきには婚姻が必ず絡むだろう事はね)
ティッシの令嬢を誰か朱里へ嫁がせる事、そしてティッシはティッシで朱里の姫君に嫁いできてもらう事、それが必要である事はクルスも分かっている。
だからこそと言うべきか、エルグの言葉でクルスにとって最悪の可能性が頭に浮かんで離れない。
クルスが唯一大切に思う少女、シリン・フィリアリナは9歳ながらにしてとても賢い。
それからイディスセラ族を怖がらず、最近分かった事だがイディスセラ語すら話す事が出来る。
クルスにとって大切な少女でなければ、これ以上の最適な条件を有した令嬢はいないだろうと思えてしまうのだ。
(シリン姫の法術の才能を、あの兄上が簡単に手放すとは思えないけど…)
万が一ナラシルナで何か騒動が置き、シェルファナがグレイヴィア卿を誘ってティッシに来る事になってしまったら?
シリンの能力がティッシ内で唯一のものではなくなってしまったら?
表面上はそんな悩みは全く見せないクルスだが、ずっと頭の中を悪い可能性ばかりが駆け巡る。
無意識にだが小さなため息がこぼれてしまう。
今のこの状況にあまりふさわしくない、悩ましげなため息だ。
今のクルスの目の前に広がるのはキラキラとした明かりと、そして音楽に合わせて踊る男女のペア。
そう、今は建国祭の最中だ。
毎年恒例の学院主催のダンスパーティーをクルスはぼんやりと見ていた。
部屋にこもっていた所で嫌な考えは消えないのだからと、気分転換に来てみたのだ。
毎年このダンスパーティーを見に来ては適当に誰かの相手をしていたのだが、今年はそんな気分ではなかった。
クルスは自分に注がれる熱い視線に気づいても何も心が動かない。
(シリン姫に会いたいな…。きっと明日も屋敷にいるだろうから行ってみようか)
自分とは質の違うさらさらの髪に指を絡ませながらその髪に口づけて、まっすぐにクルス・ティッシという存在を見つめてくれる青い瞳にほっとして、小さな身体を抱きしめてぬくもりを感じたい。
最近は甲斐とシリン、クルスの3人でのお茶会が多いのだが、最初の頃は甲斐の存在が邪魔で邪魔で仕方なく、シリンの視線が逸れた隙に蹴りあげて地面に埋め立ててやろうと何度思ったことか。
今では甲斐の存在も、クルスにしては珍しく友人と思える程度にはなってきている。
年齢が近いのと、お互い国での身分がかなり責任あるもの、そしてシリンの事を大切だと思っているという共通点があったからだろう。
そんな事を考えているクルスの側に、ゆっくりと誰かが近づいてくる気配がした。
その気配がこの場にはいないだろうと思っていたとても覚えのある気配で、クルスは少し驚いた表情を浮かべながらそちらへと視線を向ける。
「シリン姫?」
クルスの視線の先には、覚えのある気配の主、シリンの姿がそこにあった。
「こんばんは」
にこりっとシリンは自然に笑みを浮かべている。
学院にシリンが来る事など想像がつかなかっただけに、クルスは驚いた。
「どうしたんだい?」
「ん、最初はミシェル嬢達に誘われて来たんだけど、彼女達のダンスのお相手ができちゃったもんで、さっきまでクオン殿下にちょっと学院内を案内してもらってた」
「クオンに?」
「クオン殿下がクルス殿下を見つけて、私だけこっちに来たんだけど、クルス殿下は時間は平気?忙しくない?」
「私は大丈夫だよ、今回の準備に関わっていたわけでもないしね」
クオンという言葉にクルスは少しむっとするが、シリンを1人で放置させなかった事を思えば、クオンでも一緒にいてくれた方が良かっただろう。
シリンがクルスの隣に立つように移動してきて、クルスは嬉しくて小さくだが自然に笑みを浮かべてしまう。
「ミシェル嬢のお相手というのはもしかしてセルドかい?」
「うん」
「よく、セルドが引き受けたね」
「無理やり引き受けてもらっちゃったんだけどね」
その言葉でシリンが何故ここにいるのか、何となくだが分かった。
ミシェルが魔族犯人の誘拐事件以来、シリンを大層気に入っているらしい事を聞いた事がある。
彼女がシリンを誘い、学院内でセルドがシリンを見つけ、シリンがセルドにミシェル嬢と踊るように頼んだのだろう。
セルドは妹であるシリンに甘い、そしてシリンはとても聡いからミシェルの気持ちは気づいているだろう。
良く見ればダンスを踊っている広間には、セルドとミシェルが踊っているらしき姿もある。
「シリン姫はダンスは踊れるかい?」
シリンと踊れたらいいな、とふとクルスは思ったので聞いてみる。
「は?え、まぁ、一応たしなみ程度には。けど、練習をしただけで実際本当に誰かと踊った事なんてないから上手いかどうかは分からないよ?」
「けれど、ひと通りは踊れる?」
「うん、一応ね、一応」
自信がないかのように念を押してくるが、素人でないのならば大丈夫だろう。
幼い頃から学んでいれば身体が自然に覚える。
フィリアリナ家が下手な教師をつけるはずもないので、正式な場でも形になる踊りは出来るはずだ。
本当にシリンは自分の事を過小評価し過ぎるものだと思ってしまう。
クルスはにこりっと笑みを浮かべて、ダンスに誘う正式な礼の形をとってシリンに手を差し出す。
「シリン姫、私と踊っていただけますか?」
公式の場で、クルスはシリンをダンスに誘う事は出来ないだろう。
基本的に王族は踊る人間を事前に決められてしまう。
まだ、正式に公式のパーティーには出ていないシリンとは、踊る事は出来ない。
「は、え?」
きょとんっと可愛い表情をしながらシリンは驚いている様子である。
クルスの顔を見て、それから差し出された手をじっと眺める。
すぐに手を取って貰えないこの状況に、クルスは少し不安になる。
「私、あまり上手じゃないよ?」
「そんな事は気にしてないよ。私は、シリン姫と踊りたいから誘っているんだよ」
シリンが少し驚いた表情を浮かべて、照れたように頬をほんのり赤く染める。
そんな表情も可愛らしいと思うのだが、それを口にしてもシリンはきっとその言葉を正直に受け止めないだろう。
どうしてかシリンは自分の容姿が可愛くないと思い込んでいるようなのだ。
遠慮がちにシリンがクルスの手に自分の手をのせてくる。
クルスはシリンの小さな手を優しく握った。
「足踏んだらごめん、って先に言っておく」
「少しくらい平気だよ」
思わずくすくすっと笑ってしまうクルス。
こうして先に謝罪の言葉を述べる事が出来るところから、シリンが優しいだろう事が改めて実感できる。
気位の高い令嬢は、足を踏んでも素知らぬ顔をする事が多い。
下手なダンスを下手とも思わず、自分と踊る事は光栄であるかのような振る舞いをするのだ。
(シリン姫、緊張してるみたいだね)
足もとが気になって仕方ないように見える。
足を踏まれるのは痛いが、シリンにならば別に踏まれてもいいとクルスは思った。
それすらも楽しいと思えると感じるから。
「緊張してるシリン姫は貴重だね」
緊張をほぐす為に、クルスはシリンへと話しかける。
音楽に合わせてゆっくりとダンスを始めるが、シリンは決して足を止める事はしない。
緊張をしていても、身体はちゃんと動いている。
「貴重って…、緊張くらい私もするよ」
「でも、あまり緊張しているシリン姫を見た事がないからね。いつも余裕があるように見えるよ」
「そうかな?」
首を傾げるような仕草をしたシリンからは、もう緊張が幾分かとれていた。
一瞬感情をそのまま表情に出てしまったりする事はあるだろうが、シリンは9歳という年齢なのにすごく落ち着いている。
セルドも随分と落ち着いているのだが、シリンの方が大人っぽく感じる。
クルスですら、シリンの方が年上のように感じる時がある。
(だから、シリン姫には甘える事ができるんだけどね)
シリンはいつもどこか余裕があるように見えて、”大変だったらいつでも寄りかかっていいよ”と言っているかのように、クルスの存在を受け入れてくれる。
年下の、しかも9つも年下の少女に甘えるなど、昔のクルスだったのならば考えられなかったことだが、こうしてシリンの側にいる事がクルスは嬉しい。
「私はクルス殿下の方こそ余裕があるように見えるよ?本当に余裕があるかどうかは分からないけど、慌てるの見た事ないしね」
シリンはそう言うが、クルスはそう見せているだけだ。
そして、心を許していない相手に自分の感情を見せる必要性も感じない。
そう簡単に慌てているようには見せない表情をするように、育ってしまったのだ。
「私が感情を隠してしまうのは本当に無意識らしいよ。自覚はないのだけれども、すごく慌てている時と怒っている時は怖いくらい無表情になるらしいね」
「らしいって…」
「自覚ないから分からないんだ」
内心の感情が強いほど、落ち着こうとして表情がなくなるのは反射的なものなのだろうとは思っているクルスである。
本当に自覚はないのだが、その時の自分は周囲の反応を気にする余裕がないので、自分の表情に対する相手の反応も気にならない。
(けど、私がそうなるって気付かせてくれたのはシリン姫だよ)
大きな怒りで無表情になったのはシリンが浚われた時だ。
シリンが最初朱里に浚われた時、クルスの表情は怖いほどに無表情だったらしい事、それはシリンの父であるグレンから聞いた事。
ふと、クルスはシリンが何か気にしているのに気づく。
少しだけなのだろうが、周囲の視線が気になっている。
(周囲の視線…か)
クルスは自分やシリンに向けられる視線は気づいていた。
少し前から、ダンスをしながらも意識をこちらに向けているセルドの視線も。
「気になる?」
「ん?」
「周りの視線」
シリンが気にしているのは、おそらくシリンへと向けられた嫉妬の視線だろう。
クルスもその視線には気づいていたが、クルスは別の視線を気にしている。
セルドのようなクルスに対するどちらかと言えば敵意のある視線。
「平気だよ」
「そう?」
にこりっとシリンは笑みを浮かべている。
シリンは気にしていないと言うが、クルスの方は実は気にしていた。
今は自分に敵意ある視線を向けてくるのがセルドだけだが、他にシリンに対して好意を持っている人がいるかもしれないと思ってしまう。
(ちょっと試してみようか)
クルスはすっと顔をシリンへと近づけ、シリンの頬に触れるだけのキスをする。
シリンは驚愕の表情を浮かべたまま、顔をほんのりと赤く染めてクルスをじっと見上げてくる。
「く、く、クルス殿下…!」
「嫌だったかい?」
少しだけ悲しそうにそう言えば、何か言いた事があってもシリンは言ってこない。
ずるいと分かっていても、クルスはこの行為を否定されたくなかった。
表面上はそんな表情だが、クルスの頭の中ではこの行為に対する周囲の反応を冷静に見ていた。
(私に向けられた視線、あったね)
セルド以外に2つだろうか…、一瞬だが敵意のある視線を感じた。
シリンの存在はその名だけは知られているが、シリン自身と接触がある貴族は殆どいないはずだ。
その為、シリンに好意を抱くような機会を持てる人は殆どいないはずで、クルスの行動に反応するのもセルドくらいだろうと思っていたのだ。
(フィリアリナの名だけに惹かれているどこかの身の程知らずか、それともシリン姫が知らずに口説いた相手か分からないけど、要注意だね)
シリンに想いを寄せる相手がいるかもしれないと思った瞬間、エルグの口から出てきた婚約話の事を思い出してしまう。
稀有な才能を持つシリンの将来の事、エルグは恐らく考えているだろう。
ティッシの利益になるだろう婚姻をエルグは望むはずだ。
「ねぇ、シリン姫」
「うん?」
「婚約者は作っちゃ駄目だよ?」
「……はい?」
シリンはフィリアリナ家の長女だ。
シリン自身が嫌だと突っぱねれば、娘を可愛がっている現フィリアリナ家当主であるグレンがどうにでもするだろう。
エルグが何を企もうと、シリンが嫌だと言ってくれればそれは成されないはずだ。
「兄上がどんなにフィリアリナ家にとって、ティッシにとっての良縁を持ってきても、絶対に断ってね」
「とりあえず、見ず知らずの人と婚約する気は全くないよ?」
見ず知らずの人とだけ婚約する気はないだけでは駄目なのだ。
知っている人ならばその婚約を受け入れてしまうという事になりかねない。
「相手が知っている人でも駄目だよ」
「少し知ってるだけでも、ちゃんと解り合わない限り婚約なんて出来ないよ」
その言葉だけでもクルスは不安だ。
朱里の人間とティッシの令嬢の婚姻を考えているだろうエルグ。
朱里の候補として挙がるとすれば、今回ティッシに滞在してティッシに馴染み始めている甲斐は当然候補になるだろう。
シリンと甲斐の仲は良い。
甲斐はあまり周囲に警戒を抱かない性格なのだろうが、シリンは無条件で誰かを信用する事ないだろうに甲斐に対して最初から警戒を全くしていない。
仲が悪ければ、悪くなくとも良いとは言えない関係ならば、周囲も無理にとは言わないだろうが、その理由が使えない程にクルスから見ても甲斐とシリンは仲が良いのだ。
「相手がカイでも駄目だからね」
クルスの言葉にシリンは少し驚いたような表情になる。
「婚約自体が駄目?」
「駄目」
はっきりとクルスは駄目と答える。
誰かのものにならないで欲しいと思うのは我儘だろうか。
好きな人が出来てもいい、シリンの行動を束縛しようとは思っていない。
それでも、まだ、もう少しの間は誰のものにもならないで欲しいと思ってしまうのはいけない事だろうか。
「そうだね…」
シリンは少し考えるように視線を彷徨わせる。
ダンスの音楽が妙に響くような気がする。
シリンがクルスの言葉を否定する様な事を返してきたらと思うと、怖いのだ。
誰がどんな言葉を投げつけてきても、軍にいた時部下の命を落とすような失敗をするかもしれない時でも、クルスは震えるほど怖いと思う事はなかった。
手が震えている事を気付かれないでいるだろうか、そんな事を思いながらクルスはシリンの言葉をじっと待つ。
「クルスが嫌なら、婚約は全部断るよ。当分は、ね?」
にこりっと笑みを浮かべるシリン。
クルスは言葉の意味を理解してほっとすると同時に、シリンの言葉に違和感を覚え、だがその違和感の原因にすぐ気づきぴたりっと思考が停止する。
”殿下”という敬称を付けずに呼んで欲しいとずっと思っていた。
だが、クルスは自分の立場をちゃんと理解していた。
だから丁寧口調なしならばともかく、敬称をつけずに呼ばれることは難しいと思っていたのだ。
「しりん…姫?」
「うん?」
シリンの態度は普通だ。
もしかしたら、意を決してクルスの名を呼んでくれたのかもしれないが、今のクルスにはシリンの感情をそこまで読み取る余裕がない。
(不意打ちすぎるよ…シリン姫)
喜びを表したいのに、笑みを浮かべる事が出来ても涙がこぼれてきてしまう。
悲しいわけではない、嫌なわけではない、嬉しすぎて涙がこぼれてしまうのだ。
クルスは自然にシリンを抱きしめるように腕をまわす。
ぎゅっと抱きしめたシリンの身体は小さい。
けれど、クルスはそんな小さなシリンをとてもとても大切に想っている。
自分に欲しい言葉をくれる大切な大切な姫。
「シリン姫、もう一度」
「へ?はい?」
「もう一度呼んで」
シリンの声でクルスの名前を呼ぶ声をもう一度聞きたい。
一度だけでは夢ではないかと思ってしまうかもしれないから。
「クルス」
名前を呼ばれただけだというのに、それがそんなに嬉しい事だとは、今この瞬間まで分からなかった。
この瞬間がずっと続けばいいとすら思えるが、それは無理である事をクルスは分かっている。
クルスの婚約者にしてしまえば、シリンは今よりもずっとクルスの傍にいてくれるだろう。
だが、クルスはそれだけはしたくない。
クルスは自分が第二王位継承者である事を、嫌というほど自覚している。
自分の婚約者という立場が、どれだけ束縛のある生活を強いられるかも分かっているのだ。
自由で楽しそうに笑っているシリン姫が誰よりも好きで、そんなシリン姫だからクルスを受け入れてくれるのだろうし、クルスもそんなシリン姫を愛しているのだ。
だから、絶対に束縛などしたくない。
シリンには常に幸せだと感じていて欲しい。
(愛してるよ、シリン姫。だから、ずっとでなくていいから、誰のものにならないで…)
心の中でのみ言葉にする、自分の一番の願い。
叶って欲しいとは思わない、それは、願うだけのクルスの願いだ。
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