WOT -second- 43
シリンがいつものように、それでもなるべく屋敷にいて大人しくしているように過ごしているうちに、甲斐とクルスが仕事から戻ってきた。
長期の仕事だったはずなのに、戻ってくるのが随分早いと思ったのだが、どうやら帰りは2人だけ転移法術でさっさと帰ってきたらしい。
そして、もはや恒例になってきている3人でのお茶会。
飲み物は緑茶、お茶菓子は和菓子で今回は甘納豆である。
「私は時々殺意を抱くほどに兄上の事が憎らしいのではないかと思う事があるよ」
唐突に、クルスにしては珍しく不機嫌そうな声でぽつりっと呟く。
本当にそれは唐突な言葉だった。
のんびりとお茶を飲みながら、甘納豆にかじりついていた甲斐とシリンは、思わずその手をぴたりっと止める。
ひゅぅぅっと冷たい風が吹き抜けるかのように、クルスの周囲の空気だけがひんやりとしている気がするのは気のせいだと思いたい。
「えっと、急に何?」
「つか、お前、それかなり物騒な言葉だぞ?」
仕事で何か嫌なことでもあったのだろうか、とシリンは思うが、クルスに限ってそれはないだろう。
それとも、兄弟仲は良好になりつつあると聞いているはずなのだが、エルグとクルスで喧嘩でもしたのだろうか。
王族兄弟2人の喧嘩は色々な意味で恐ろしそうである。
精神的な被害が大きく広がりそうに思えるからだ。
「まさか、あの時の事、まだ気にしてるとかじゃないよな?」
「あれだけで私の気が済んだとカイは思うのかい?」
にこりっと怖い程の笑みを浮かべるクルス。
「……いや、思わないけどな」
その笑みから決して気が済んだわけではないというのがありありと分かった甲斐は、そう言葉を返すしかない。
”あの時”が良く分からないシリンはこくりっと首を傾げる。
シリンが事情を知らないのに気づいた甲斐は、ため息をつきながら説明のために口を開く。
「西行った時の報告を、エルグ陛下と他の政務官の人たちの前でしたんだよ。勿論堅苦しいものじゃなかったし、いたのはオレとクルス、エルグ陛下と多分高位だと思う政務官が3人くらだったか」
「仕事の報告ってこと?」
「ま、そんな感じだ。もっぱら話すのはクルスばっかりだったけどな。報告は一応はスムーズに終わったんだよ。けど、政務官の1人が”あの話”を出してさ…」
「あの話?」
さらに首を傾げるシリン。
「シリン姫が囮になった誘拐事件の話だよ。私達が西に言っている間、魔族が現れたという事を耳に入れさせる為話題に出したんだろうけどね」
緘口令が布かれているが、エルグと同席しているだろう政務官ならばそれなりに高位であるだろうから、魔族が現れた事くらいは知っているだろう。
その政務官は、それをクルスも知っておくべきだと思ったから話題に出したのだろうが…。
「その事を聞いて、思わず兄上が”わざと”私と甲斐を西に行かせた事を思い出して手が滑ってしまっただけだよ」
「手が滑ったって?」
「手に持ってた羽ペンを兄上に向かって投げつけただけだよ、シリン姫」
「何が”だけ”だ。硬化呪文こっそり唱えてただろ?」
硬化呪文というのは勿論法術であり、対象を硬くする法術である。
比較的そういう補助的な法術を使う人は少なく、覚える人も少ない法術ではある。
だが、使い方次第ではかなり物騒な法術だ。
「羽ペンって言っても硬化させたらかなり硬いんじゃ…」
「残念ながら、当たらなかったけどね」
「エルグ陛下の椅子の背もたれに、深々と突き刺さったけどな」
当たっていたら軽い怪我では済まなかったはずだ。
羽ペンとはいえ、硬化法術をかければ金属製の針とそう変わらない。
当たり所が悪ければ命にすら関わる事になりかねない。
「私に内緒でシリン姫を囮になんて使った兄上が悪いんだよ」
クルスの怒りの原因はそこのようである。
シリンを囮に使ったことを、クルスに何も言っていなかったという事。
「でも、エルグ陛下がクルス殿下と甲斐をわざと西へ行かせたのはともかく、やっぱり魔族が関わっている以上、囮は他の子じゃ難しかっただろうって私は思うよ?」
殆どの貴族の令嬢たちは学院に通っている。
学院に通っているという事は、魔族の事を教わっているという事だ。
イディスセラ族よりも恐ろしい、異形の姿を持つ恐怖の対象として。
「兄上が成功確率を上げるためにシリン姫を囮に選んだ事は分かる。けれど、シリン姫の安全が確保されているわけじゃなかった」
確かにそうかもしれない。
エルグもシリンが魔族に対抗できる手段があるなどと思って、シリンを囮に出したわけではないだろう。
浚われた場所の特定と、できればその場所から外へ上手く逃げ出してくれれば十分すぎるという程度だったに違いない。
逃げる途中、シリンが怪我をするかもしれない可能性がある事を分かっていながら。
「硬化した羽ペン投げつけたってのはやりすぎだろうけど、オレはクルスの気持ち分からないでもないな」
「甲斐?」
「シリンにそこまで期待をするエルグ陛下は、かなり無茶苦茶だと思う」
同じ年頃の、しっかりしているだろうミシェルが犯人が魔族だというだけであの怯えようだったのだ。
少しくらい法術が得意なのだとしても、10歳前後の少女がどうにか出来る事件ではないだろう。
「犯人が魔族ってのは、王宮でも少し前から噂があったんだ」
「兄上がそれを知らないはずがない。だから、兄上はシリン姫に犯人が魔族だと知りながら依頼をした事になるんだよ」
「シリンは、犯人についてエルグ陛下から何か聞いてから依頼を受けたか?」
その問いにシリンは困ったような笑みを浮かべる。
魔族だという事は知らなかった。
だが、エルグが”最悪の相手”と言っていたので、お金目的の分かりやすい誘拐事件ではないだろう事は分かっていた。
エルグが犯人は魔族である事が分かっていたというのは、誘拐されてから判明したのだが、シリンにとって”事前に教えてくれれば良かったのにな…”くらいの事だ。
「魔族は強い。あの時は、オレとクルス2人が掛かりでやっとだったくらいだ」
「私も甲斐も、戦闘経験はそれなりにあるし、法術だってかなり高位のものも使える、人間にしては強いレベルだよ。それなのに、1人を相手にするのがやっとだった」
クルスと甲斐の実力は確かにその年齢にしてはずば抜けており、軍人としてみてもトップレベルの実力と言えるだろう。
年齢故に経験不足は多少あれど、一般軍人十数名分くらいの戦力にはなるはずだ。
けれど、あの時は2人はグルド1人を相手にしていて、グルドには少し余裕すらあったのではないだろうか。
「その魔族相手に、シリンに他の子達と一緒に逃げて来いっていう依頼は無茶苦茶だ」
「下手をすれば、囮のシリン姫が危険な状況になっていたかもしれないんだよ」
誘拐犯である魔族の力が半端ではない。
だからエルグの依頼は無茶苦茶だと甲斐とクルスは言う。
「でも、魔族全部がグルドみたいに強いわけじゃないし、私の相手はグルド程手ごわくなくて結構簡単に捕縛できたし…」
平気だったよ、と言葉を続けようとしたが、クルスと甲斐が同時に顔を顰めたのでシリンは思わず言葉を止めてしまう。
顔を顰めながらも、2人の視線はじっとシリンに注がれる。
(あ、あれ?もしかして、私、何かまずい事言った…?)
顔が引きつりそうになりながらもシリンは笑みをへらっと浮かべて誤魔化してみる。
そんなものが通用するはずないと分かっていたが、はやりクルスと甲斐の表情は変わらない。
「グルドって、何で名前知ってるんだ?」
「な、名乗ってくれたから?」
「グルド・レサは律儀に自分の名前を名乗るような相手じゃないと思ったけど?」
「え?」
クルスの言い方だと、クルスは以前からグルドの事を知っているように聞こえる。
だが、魔族がティッシに来たのは今回が初めてのはずであり、一般的に魔族の存在はティッシには知られていない。
魔族の特定の誰かを知っている可能性は低いはずなのだ。
「話しを少しだけ聞いたことがあるだけだよ、グルド・レサとドゥールガ・レサに関してはね」
「面識ありとかじゃ…」
「ないよ。別にあれがグルド・レサであっても、私にとってはどうでもいいことだけどね」
何か理由があるのか、過去ティッシの人間でグルドに関わった人がいるのか、クルスは知っているらしい。
ドゥールガは有名だから知っているのだろうという事で納得できる。
グルドに関しては366年も生きているのだ、グルドの事を知っている人がティッシにしてもおかしくはないのかもしれない。
そしてグルドを見かけたのか、対峙したのかは分からないが、その時の話をクルスが聞いていても不思議ではない。
「シリン、まさかとは思うが、名前を知っているって事は、誘拐された先で誘拐犯と談笑していたなんてこと、ないよな?」
「えっと…」
「シリン姫、種族差別がないのは美徳だとは思うけど、相手が危険な種族だというのはちゃんと認識してたのかい?」
「え、えっと…」
やばい…とシリンは思う。
危険な種族だという認識は、実際一緒に食事をしている時は殆どなかったりする。
それどころか、逃げる手段を考えながらも、楽しく会話をしていたりした。
ゲインをからかうのはすごく楽しかったのを覚えている。
「シリン」
「シリン姫」
「ご、ごめん…」
素直に謝るシリン。
元々、グルド達と談笑していたことで後ろめたい気持ちはあったのだ。
「だって、普通に言葉通じるし、同じように感情もあるし、問答無用で攻撃されたりしなかったし…」
(あの船の中では…)
と内心付け加えておく。
日本でグルドと会った時は、警戒されて問答無用で攻撃されたのだが、あの時は仕方のない事だと思っている。
「シリン姫に、一般的な感覚を求めるのが間違っているのかな?」
「だろうな。シリンに世間一般の感覚があれば、オレの事だって初対面で普通に怖がっているはずだろうし」
「ええ?それじゃあ、私に世間一般の感覚がないみたいじゃない」
互いにため息をつくクルスと甲斐に対して、シリンは心外だと言いたげな視線を向ける。
魔族やイディスセラ族に恐怖を抱かないのは少し変わっているかもしれないが、シリンからすれば、そんな相手の事をよくも知らずに先入観だけで怖がる方がおかしいと思えるのだ。
最も、彼らの”成り立ち”を知っているからこそ、シリンがそう思えるのかもしれないが。
「シリン姫、ひとつ聞いていいかい?」
「ん?」
「シリン姫は魔族を見て、最初はどう思った?」
「どうって?なんで?」
「単純な好奇心。普通は恐怖を抱くはずの魔族に対して、シリン姫はどう思ったのかなって興味があるだけよ」
シリンが魔族と呼ばれる彼らとの初対面は日本で、になるだろう。
ゲインとグルド、それが初めて対面した”魔族”。
彼らを初めて見た時の事を思い出しながらシリンは考える。
「2本脚で立ってべらべら話せるワンコ?」
「ぶはっ…」
「……」
クルスと甲斐の前で嘘をつく必要などもなく、シリンは正直な感想を述べる。
その言葉に、甲斐は吹き出し何故か震えながら顔を伏せて笑い出し、クルスは短い沈黙の後それはそれは大きなため息をつく。
「シリン姫…」
「え、だって、本当にそう思ったんだって」
クルスのどこか責めるような視線に、シリンは嘘ではないと主張する。
「カイ、笑える話じゃないよ」
「けど、シリンらしいってオレは思うぜ?」
「そうなんだけどね…」
クルスとしては、シリンのそのどの種族も差別しないような感覚で、シリンが危険にさらされるかもしれないのが嫌だ。
しかも、そのシリンの差別ない感覚は、エルグがおおいに利用するだろう事もなんとなく想像がついてしまう。
「んでもさ、魔族を”ワンコ”だなんて言えるのシリンくらいだろうな。やっぱ、一般的な感覚あるとは言えないだろ」
そう言われると言い返せない。
確かに、あの姿を見て普通のシリンくらいの年齢の子でワンコと言える子など殆どいないだろうし、大人なら尚更だろう。
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