WOT -second- 42.5
ティッシ王宮から離れた場所、貴族院の中では隅になるだろう場所に1つの屋敷がある。
そう大きなものではない屋敷と小さな庭がある、中流貴族の屋敷に見える。
だが、ここに近づく者は貴族といえど殆どいないだろう。
エルグ・ティッシは、この殆ど人が近づかない屋敷に訪問していた。
用件は魔族の事に関する事と相談だ。
ティッシの国王たるエルグが、相談できる相手など限られている。
そう、ここはティッシ前国王、バルガス・ティッシが住まう屋敷である。
静かな客室の中、エルグとバルガスは向かい合っていた。
テーブルには暖かな湯気を立ち上らせる紅茶が2つ。
バルガスの容姿は、白髪交じりの少し癖のある金髪にエルグとそっくりの空色の瞳、額にうっすらと残る傷跡が印象的な、60近い男だ。
もう老人に近い年ごろと言うのに、年老いた感じを受けないのは、彼が未だにこっそりとだが身体を鍛えているからだろうか。
「魔族か…」
「ティッシにまで来る事など、私が王である間はないだろうと思っていましたが、どうやら世間の情勢は随分と移り変わりが早いらしい」
「世界が動く、か?」
「はい」
静かなバルガスの言葉に、エルグは小さく頷く。
バルガスは小さくため息をつきながら、自分の右足を撫でるように触る。
そこに感じるのは暖かな人の体温ではなく、金属の冷たさだ。
「脚が痛みますか?父上」
「もうない脚など痛みようがないだろう」
その言葉にエルグが僅かに顔を顰める。
エルグがこのような表情をするのはとても珍しい事だ。
バルガス・ティッシの右脚はそこにない。
ただ金属製の義足があるだけで、両足をあるように見せかけているだけだ。
珍しくもエルグが顔を顰めてしまうのは、バルガスが右脚を無くした時の事をよく知っているからなのだろう。
「戦場に出るつもりか?エルグ」
「魔族と我ら人間の全面対決となれば」
「大国の国王自らがか?」
「これだけは譲れませんよ、父上」
強い視線を返すエルグ。
国王自ら戦争の前線に出る事はまれだ。
「対策はあるのか?相手は全盛期の私相手に、軽々右脚を奪っていたのだぞ」
ティッシ国内ではあまり知られていないが、バルガスの失った右脚は魔族によってもがれたものだ。
過去オーセイに訪問した際、バルガスは魔族との戦いで右脚を失った。
思うように動けなくなったバルガスは、怪我を理由に退位したのだ。
「魔族の情報はシュリの方が詳しいでしょうから、近々シュリへの訪問を予定しております。それにクルスとシリン殿を同行させる予定です」
「お前のお気に入りのシリン・フィリアリナ殿、か」
「私ではなく、シリン殿を気に入っているのはクルスですよ」
エルグは苦笑しながらそう返す。
そうは言いながらも、エルグはシリンの事を気に入っている事を自覚はしている。
だが、それはクルスとは違う感情だ。
「シリン殿はグレイヴィア卿と”同じ”です。この世界で唯一魔族と対等に戦う事が出来るだろうあのグレイヴィア卿とです」
「それはつまり、彼女を戦場へと出すつもりか?」
「表だって出すつもりはありません。彼女には裏で動いてもらいます」
「エルグ…」
バルガスは呆れたかのような溜息をつく。
シリンの年齢を知らないわけではないだろうに、エルグはシリンを平気で使おうと考えている。
王として使える者は有効に使うのは悪くないが、躊躇いもない様子に呆れてしまう。
かつての自分もそうだったかもしれないと思いながら。
「今回の誘拐事件、その場にいた者には他言無用としましたが、シリン殿が彼ら魔族と対等に戦っていたという報告があります」
「シリン・フィリアリナ殿がか?」
「はい」
「彼女は何の訓練も受けていない、普通の令嬢だろう?」
「そのはずですね」
エルグに報告をした軍人は、信じられないものを見たかのように語っていた。
ティッシ軍の中でも選りすぐりであった自分達が3人で1人を相手にするのがやっとというのに、あの中でもかなり強大な力を持つだろう魔族を1人で相手にしていた。
しかも、あっさりと1人の魔族を拘束したらしいのだ。
「彼女の経歴は漁ったか?」
「3度ほど調べましたが、何もおかしな点はありませんでした。グレン・フィリアリナの娘、フィリアリナ家長女、それは間違いありません」
「お前はシリン・フィリアリナ殿と何度か会話をしているのだろう?その経歴に間違いはないと思ったか?」
「経歴に間違いはないでしょう。ですが、彼女と会話をしてみると不審な点はいくつかあります」
「言ってみろ」
エルグはシリンと話をした時の事を思い出す。
シリンの環境を考えれば、ああなるように育つ事はあり得ない。
何らかの介入があったとしか考えられないのだが、シリンの今までの経歴や育ちを生まれた時から全て何度か調べてみても、不審な点や何らかの介入があったという記録もなかった。
「精神的にかなり落ち着いていますね、たかが9年しか生きていないという割には落ち着きすぎています」
「それは周囲からの評判を常々耳にして来たからではないのか?悪意をぶつけられれば、精神的な成長を早めざるを得ないだろう」
「シリン殿の環境はそこまで悪くありませんよ、父上」
シリンの事をわざと憐れむように言う者もいる。
だが、正面きってフィリアリナ家の令嬢に何かを言う者など少ない。
まれに悪意の言葉をぶつけられるくらいだったはずだ。
「ですが、それだけではありません。何故か彼女は、異種族に対しての偏見がないように感じます」
「異種族…というと、魔族という事か」
「イディスセラ族に対してもです。環境が影響しているかと思っていたのですが、セルドは周囲と同様の感覚を持っているようですし」
学院に通っていると通っていないの違いはあっても、セルドとシリンはほぼ同様の環境で育った。
環境がほぼ同じならば、そう感覚が違うように育つ事はないだろう。
「シリン・フィリアリナ殿の本質がそうだからではないのか?」
「と、私もそう思ったのですがね。恐らく何か理由があるのではないかと」
「理由?」
調べても何も怪しい所は出てこないというのに、エルグは理由があると考えている。
「例えば彼らの”成り立ち”を知っている、とか」
うっすらと笑みを浮かべながら言うエルグの言葉に、バルガスは呆れたような溜息を返す。
イディスセラ族にしろ、魔族にしろ、彼らがどうして存在しているかなど考える者は極僅かだ。
彼らという存在がどうして今ここに在るのか、それを知る者などこの世界にはいないのだ。
それ故、彼らが何故存在しているという問いは常識的に無意味と考えれる。
「お前はいつもそうだが、突拍子もない事を言うな」
「そうですか?意外とシリン殿に関しては、突拍子もない事が案外正解だったりしますよ、父上」
エルグが言いたいのはシリンがオリジナルの法術の構築が出来るということだ。
オリジナル法術の構築、それができるナラシルナのグレイヴィア卿が貴重な存在であり、この世界に2人といないというのが常識のようなものだ。
だから、エルグが以前シリンにカマをかけた時は、そんな事はあり得ないだろうという9割がた冗談のつもりの問いかけだったのだ。
シリンから肯定の言葉を聞いた時は、内心は言葉も出ないほど驚いていたということはエルグ本人しか知らない事だろう。
「しかし、異種族に対しての偏見がない…か」
「異種族にしても何にしても、偏見がないのは潜入捜査で潜入先に難なく溶け込めるという点で利点ではあるのですよ」
「特に大人は子供に対しての警戒が緩いから、尚都合がいい、か?」
「そうですね」
あっさり肯定を返すエルグに、バルガスは再び溜息をこぼす。
「シリン・フィリアリナ殿の将来が私は心配だな」
「何を言うのですか、父上」
バルガスが言いたいのは、いいようにエルグに使われるだろうシリンが可哀想だということだ。
自分の息子であるエルグの性格が、もう一人の息子であるクルスよりも実は捻くれまくっている性格である事をバルガスは知っている。
「お前の事だ、いずれは彼女の結婚相手まで口を出すんだろう?」
「そんな野暮な事はしませんよ。ですが、シリン殿の気持ちが今から変わらなければ分かりませんけどね」
「今から?」
「どうやら、イディスセラ族に思い人がいるようなのですよ」
小さくだが、エルグが少し困ったような溜息をつく。
これが半分演技で、半分本音ということが父であるバルガスには分かる。
表情を偽ることはエルグにとって日常のようなことであり、親兄弟の前ですら本心を覆い隠してしまうのはもはや癖のようなものなのだろう。
「いいだろう恋愛くらい。お前だって相当無茶な相手を選んだだろう?」
「ですが、あの才能を国外へ出すのは惜しいですよ」
「お前は……」
エルグが現王妃であるシェルファナを連れてきた時は、かなりのゴタゴタがあった。
今では思い出として語る程度になっていて、幼い貴族の子達は知らないだろうが、あれをどうにか収めるのにどれだけバルガスが苦労したか。
自分は堂々と他国の身分ある娘を浚っておいて、シリンの恋愛にはちゃっかり口を出すとは、本当に性格が悪い。
「最も、グレイヴィア卿が我が国に来て下さるのならば、話は変わってくるでしょうけれどね」
シリンと”同じ”才能を持つナラシルナのグレイヴィア卿。
彼がいればシリンの件も話が変わってくる、そうあくまで変わってくるのであって、エルグは賛成するとは口にしない。
「そんなにシリン・フィリアリナ殿の才能を手放したくないのならば、嫁に出すのではなく、婿をとればいいだろう?」
国外へ嫁ぐからシリンの能力を国外へ出すことになるのだ。
他国の者と結婚させるのならば、婿にすればいい。
エルグは少し驚いた表情を浮かべる。
「成程、流石父上です。そうですね、どうしても駄目そうでしたらその線でいきますよ」
「おいおい、あくまでシリン・フィリアリナ殿を手放す気はないのか?」
「グレンとラティもシリン殿が可愛いようですから、可愛がっている娘を国外へ嫁がせることを了承したら寂しがるでしょう」
バルガスは何度目になるか分からない、大きなため息をつく。
昔はここまで捻くれた性格ではなかったはずだと、子供の頃のエルグを思い浮かべるバルガス。
「エルグ、お前、性格の悪さに磨きかかかってないか?」
「何故か最近クルスやクオンにも性格が悪いと言われるようになりましたね」
心外だとでも言いたげなエルグ。
”性格が悪い”と言われるだけ、お互い仲が良くなってきているということなのだろうが、これは素直に喜ぶような事ではないだろう。
ちなみに、エルグの妻であるシェルファナはエルグの性格は悪いと以前からよく言っているのだが、それを承知で妻になったのだという事をバルガスは知っている。
「魔族対策を万全にするのもいいが、程々にしておけよ」
「善処しますよ」
にこりっと綺麗な笑顔を浮かべるエルグ。
その笑顔が、決してバルガスの言葉を了承しているわけではない事を示している。
「…善処だけか」
ぽつりっと呟かれたバルガスの言葉に対して、エルグが返すのは笑みのみだ。
息子に王位を譲ったのは後悔していない。
今、ティッシはとても安定している。
エルグだからこそ、この大国を治める事が出来ているのだろう。
だが、もう少し、もうほんの少し、人並の思いやりというのを教え込んで育てた方がよかったのではないだろうか、とバルガスが考えてしまうのは仕方ないのかもしれない。
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