WOT -second- 40.5
気を失って倒れるシリンを抱きとめたのは、クルスと甲斐の腕だった。
すでにこの場から魔族たちは去り、残されているのは浚われた姫君達と、魔族を相手にしていたティッシ軍人。
そして、この場に駆け付けてきたクルスと甲斐だ。
「で、どうすんだ?」
巨大な法力を感知して…恐らく戦闘開始となった時の法力だろう…転移してきたはいいが、甲斐はこの後の事はさっぱり考えていなかった。
それもあるが、何より甲斐はこのティッシ内では自分の考えでひょいひょい動けるような立場ではないのだ。
今回はクルスが”命令”を下してくれたので、迷いなく動くことが出来ただけだ。
だから、一応クルスの判断をあおぐ
「そうだね、もう安全のようだから、シリン姫の事は彼らに任せようか」
「いいのか?」
「完全に仕事を放り出した事を、このままティッシに行って証明しなくてもいいだろう?この場にいる人たちには、私と甲斐はこの場にいなかった事を了承してもらえば、この場にはいませんでしたとシラを切り通せるしね」
「…了承って、まさか脅す気か?」
「人聞きが悪い事言わないで欲しいね。説得するだけだよ」
甲斐は気を失っているシリンをじっと見る。
顔色は悪くないが、今意識がないという事は相当疲れたという事なのだろう。
シリンの頬にある傷に目がいき、それを治そうと手を伸ばすがその手をクルスに止められる。
「その傷はそのままにしておいて」
「何でだ?」
「少しくらい傷があったほうが、しばらくシリン姫の周囲がシリン姫に対して過保護になるからだよ」
シリンの家族はシリンを大切に思っている。
シリンに少しでも傷があれば心配するし、しばらくは外に出させないだろう事くらいはするだろう。
「兄上に頼まれたからなんだろうけど、…シリン姫は少し無茶をしすぎる」
クルスは少しだけ悲しそうに顔を歪める。
この場に転移してきて魔族と対峙しているシリンを見て、甲斐もクルスも一瞬ひやりっとしたのだ。
法術においてシリンに敵うだろう者がいない事は分かっているが、魔族などこんな幼い少女が戦う相手ではない。
暫くは屋敷でじっと大人しくしていてほしいものだ。
せめて、甲斐とクルスが仕事で首都に戻るまでは。
「シリンの事はあそこにいる軍人に任せて、俺達は俺達の仕事をちゃっちゃと片付けるしかないか」
「仕事が早く終われば、早く帰る事もできるしね」
シリンを他の令嬢たちがいるところへと連れて行こうとした瞬間、甲斐とクルスの周囲の空気が揺れたように感じた。
互いにはっとなり、周囲を見回すが何が変わったわけでもないように見える。
「シールド…」
「みたいだな」
目では分からないが、2人を覆うように見えないシールドが張られているのを感じる。
もう魔族はいないはずだが、何故シールドが張られたのか。
警戒しながら周囲を探るが、特に警戒する何かがいる様子もない。
「すまぬな、そのままの状態の主をティッシへ預けるわけにもゆかぬゆえ」
ふわりっと風が吹くようにしてその姿を現したのは、黒髪の和装美人、桜の姿である。
その姿に甲斐は驚き、クルスは警戒心を高める。
「エーア…桜?」
エーアイと呼びそうになって甲斐は呼び名を改める。
桜はシリンにふっと手を伸ばし、ふわりっとシリンを淡い光で覆う。
シリンに手を伸ばした瞬間、クルスが桜に殺気を飛ばすが、桜はそれを全く気にせずにシリンから手を離さなかった。
暫く淡い光がシリンを覆い、光が収まった後には、耳についていたインカムは消え、誘拐された時に来ていた薄紅色のドレス姿を着ている姿になっている。
ふわりっと風に舞う薄紅色のドレスはシリンによく似合っていると、クルスと甲斐は思った。
「どこかの天然無自覚たらし姉弟の弟の方が五月蠅くての」
ふぅっと小さくため息をこぼしながら桜が言ったのは、そんな言葉。
クルスと甲斐には何の事だか分らないだろう。
「天然無自覚たらし姉弟?」
「なんだ、それ?」
案の定疑問が返ってくるが、桜は笑みを浮かべるだけに留める。
動きやすい姿で戦っていたのはいいのだが、シリンはそのままの姿で倒れたのだ。
この時代では珍しいその姿で、フィリアリナの屋敷に戻るわけにはいかなかっただろう。
翔太がその服装のままじゃまずいだろ、と言った為に桜がこの場にいる。
「主の姿を戻した方が良いと言われての。シールドは妾の姿が他の者に見られぬ為じゃ。妾の存在は朱里にとって切り札故な、特にエルグ・ティッシに報告されては困るのじゃよ」
甲斐とクルスを覆うように張られているシールドは、周囲から桜の姿を見えなくするものらしい。
ティッシ軍や令嬢達によって、桜の事をエルグに報告されるのは困るのだ。
桜の存在が知られるのが困るのではなく、桜がシリンの為に動いたかもしれないというのを知られるのが困るのだ。
「私が兄上に報告するという可能性は考えていないのかい?」
「お主はそのようなことはせぬじゃろう」
「どうしてそう断言出来るんだい?」
ふっと笑みを浮かべる桜。
「お主は、わが主シリン・フィリアリナの不利益になる事を望んでおらぬからじゃ」
ただでさえ、シリンは法術の才能にエルグに目をつけられている。
更に朱里の切り札的存在でもあり、知識や法術においては人を超えるだろう存在の桜の主である…命じる事ができる立場である事を知られるとどうなるか。
桜がどんな存在であるか正確には理解していなくとも、シリンがどうなってしまうかクルスにならば分かるだろう。
「主がティッシという国に縛り付けられる事になるのは、望まぬじゃろう?クルス・ティッシ」
シリンには価値がある。
王族という立場にいるクルスには、その価値がどれだけ高いものかが良く分かる。
だからこそ、王である兄エルグにはあまり関わらせたくないと思っているのだ。
クルスは桜の言葉を否定はしなかった。
「甲斐、お主もこの事に関してあまり口を滑らせるでないぞ」
「おう、気をつける」
クルスの返答を聞かず、桜は甲斐にも警告はしておく。
桜の存在が貴重なものである事が良く分かっている甲斐は、桜の事に関してエルグに話したりはしないだろう。
クルスはじっと桜の姿を見る。
その姿にどこか違和感を覚えるのは気のせいではないだろう。
「シリン姫が主ってどういうことだい?」
ぎくりっと大きく反応したのは甲斐だ。
桜には主が必要で、その主が現在シリンであることを甲斐は知っている。
「その説明は必要かえ?」
必要以上の情報は漏らしたくはない。
何よりも、全てを話してこの場で混乱させる必要もないだろう。
シリンが桜の主であるのは、少し複雑な事情があるのだ。
「すぐに答えれる事ならば是非聞きたいね。シリン姫が君の主…主人であるからと言って、シリン姫の安全に繋がるという確証はどこにもないだろう?」
「確かにそう言えるの」
「桜がシリンに危害なんて加えるわけないだろ?!」
「カイからすればそう思えるかもしれない。けれど、私はその”サクラ”の事を何も知らないんだよ。警戒して当然だろう?」
問いかけておきながらもクルスは分かっているはずだ。
桜はシリンに危害を加える事などしない、危険な存在ではない。
だが、クルスは桜が危険な存在ではない確証が欲しいのだ。
「妾は人ではなく、そして所属は朱里になるじゃろうなじゃが、主はシリン・フィリアリナであり、主の不利益になるような事は絶対にせぬ」
「その言葉が真実である証拠は?」
「後日、妾の本体がある島へと主が招待してくれるじゃろう。その時にでも話してやろう」
桜の本体がある島というのは、元々日本だったところであり、今はどの国の領地になっているのか分からないあの場所だ。
「島?」
「ちょっと待ってくれ、桜。島って何だ?」
「おや、主に聞いておらぬか?大がかりな法術を試すために広い場所が欲しいと言っておったのじゃが?」
確かにシリンは以前言っていた。
広さが必要になる法術を使う段階になったら、海を越えた所にある小島をその場所として考えてあると。
「シリン姫がその島で説明してくれるって事かい?」
「詳細は少し長くなるのでの」
「朱里に属しているはずの君が、どうしてティッシのシリン姫を主人としているのかその理由も?」
「主が話しても良いと思えばの」
逆を言えば、シリンがいいと思わなければ何も話してくれないという事だ。
だが、桜の事もそうだが、すべて話すとなるとシリン自身の事が大きい。
シリンが話してもいいと思った段階で、シリン自身が話すのが一番だ。
「それならいいよ。待ってあげる」
クルスはふっと笑みを浮かべる。
その答えが意外だったのか、甲斐が驚いた表情を浮かべた。
先ほどのクルスの様子では、桜が何を言っても問い詰める事を止めないように見えたのだ。
だが、今はゆっくりと話をしている時間があるわけではない事を、クルスは分かっていたのだろう。
桜が言った”島”の事に心当たりがあり、シリン自身が説明してくれるならば何よりだと思ったのか、ここはとりあえず良いと判断したらしい。
「シリン姫が自分から話してくれるまで、私は待っていればいいんだね」
「主も心の整理をつける必要もあるじゃろうからの。甲斐、お主も問い詰めたりしてはいかぬぞ」
「は?あ、ああ、分かってる。シリンが話すの嫌なら無理やり聞こうとは思わねぇよ」
甲斐がシリンにどうして翔太の姉の事を知っているのかと聞いたのは、それが純粋な疑問だったからだ。
どうしても知りたい事ではない。
シリンが話すのが嫌ならば、無理やり聞きだそうなどとは最初から思っていないのだから、桜に言われるまでもないだろう。
「そうじゃの…クルス・ティッシ。ひとつアドバイスを残すが、それを成すか成さぬかはお主の自由じゃ」
「何だい?」
何を言うのだろうと、甲斐は桜の方をちらりっと見る。
「島におる主の”小舅”は、共通語が得意ではない故、イディスセラ語を早く理解できるようになっておった方がよいじゃろう」
「小舅?シリン姫の?」
「どこかの天然無自覚たらし姉弟の弟の事じゃよ」
クルスの知っているシリンに関しての事を考えれば、桜の言葉は意味が分からないもののはずだ。
だが、クルスは少し考えた後、桜を見て「そう」と呟いただけだった。
流石大国ティッシの第二王位継承者というべきか。
桜の言葉で何か気付いた事があったのかもしれない。
「さて、妾はそろそろ失礼するとしようかの」
その言葉と同時に桜の姿がふわりっと薄れて消える。
元々この場に”いた”わけではないので、映像の出力を止めただけなのだが、それはクルスと甲斐には分からないだろう。
あっさりとした去り様に、少しの間沈黙が広がる。
「カイ」
「な、なんだ?」
沈黙の後、先に口を開いたのはクルスだった。
「首都に戻るまでにイディスセラ語をマスターするよ」
さらりっと当然であるかのようなクルスの言葉。
甲斐は現在定期的にクルスとエルグや高位の政務官にイディスセラ語を教えている。
だが、甲斐は教師としての教育を受けいてたわけではないので教え方がうまいとは言えない。
しかし、それは教わる方の優秀さでカバー。
最近では、エルグとクルスは聞き取りは半分以上できるようになっているのだ。
だが、イディスセラ語は難しい。
そう簡単にマスターできるものではない。
「…マジ?」
「当り前だよ」
クルスは、冗談ではなく本気でマスターする気らしい。
首都に戻るまで1ヵ月もない。
クルスがイディスセラ語を覚える事が出来るようになるのは、甲斐にとっても別に悪い事ではない。
『じゃあ、仕事以外はこっちの言葉で話すか』
常に話していればそのうち覚えるだろう。
甲斐の言葉の意味を聞き取ることができたのか、クルスはこくりっと頷くことで肯定を返したのだった。
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