WOT -second- 28.5



このティッシで起こっている貴族のご令嬢誘拐事件。
この犯人について噂が流れているのをクオンは知っていた。
その噂を信じるならば、事態はあまり良くない。
だが、どことなく機嫌がよく見える父エルグの姿に、クオンはその噂が嘘なのだと思っていた。
そう、フィリアリナの屋敷であの光景を見るまでは…。



クオンがフィリアリナの屋敷に訪問したのは単なる気まぐれだ。
クルスと甲斐は西へ出張、フィリアリナ夫妻もエルグに命じられた仕事で東の方へ行っているらしい。
セルドは学院の生徒も関係している建国祭の準備で大忙しのため、あまり屋敷に戻れないでいる。
クオンも学院の生徒であるというのになぜ比較的時間があるかと言えば、第一王位継承者には遠慮して仕事をあまり回してくれないからである。

シリンはさぞかし暇をしているだろうと、お茶菓子を持ってクオンはフィリアリナの屋敷へと向かっていた。
勿論シリンの予定など聞いておらず、ここに来ることは誰にも言っていない。
本当ならば正式に訪問の打診をするなりなんなりするべきだろうが、シリンは正式な訪問よりも唐突な訪問の方が喜ぶだろうと思ったのだ。

「……は、はん…!!」
「け…、奥さま…」

クルスのようにシリンの部屋へ窓から忍び込もうかと思っていたが、フィリアリナの裏庭から話し声が聞こえてくる。
片方の声は女性の涙声のようで、何かを訴えているようだ。
もう片方はそれを宥めているのだろうか。
クオンはその声の方向へ気配を殺しながら近づく。

「どう、して…、奥さまも旦那さまも姫様の事…!」
「奥様も旦那様も姫様の事が大切だからこそ、陛下には安全を何度も確認なさっていたわ。きっと大丈夫よ」
「け、けれど、姫様はまだ9歳になったばかりで幼いのに…!」
「マリー…」
「できる事なら、私が代わりにでもなってあげたかったです!」
「大丈夫よ、姫様ならば。いつもマリーは言っているでしょう?シリン姫様は素晴らしい方だって」
「で、ですが…っ!」

ぎくりっとなるような名前が出てきたことで、クオンは嫌な予感がしてくる。
”陛下”が安全を確認していたのは、シリンの安全。
その言葉が意味する事は恐らく…。

「ひ、姫様、絶対に無事に戻ってこられます、よね?」
「大丈夫よ。シリン姫様はシュリに浚われた時だって無事に戻って来たでしょう?」
「そ、そうですが、あ、あの時とは、じょ、状況、が…」

ひくりっとしゃくりあげながら話しているメイド。
”浚われた”という言葉に、クオンはどくりっと嫌な予感が確信に強くなっていくのが分かった。

(父上がシリンに頼んだ?浚われる……まさか、今未解決の誘拐事件?!)

はっと顔を上げるクオン。
どことなく機嫌よく見えた父エルグ。
それはいつからだったか。
誘拐事件の犯人が大した相手ではないと分かったからかと思っていたが、エルグの機嫌が良くなった頃と、そしてフィリアリナ夫妻が東へと向かった時はほぼ一致していなかっただろうか。

(ま、まさか…父上)

否定したい気持ちがふっと浮かぶが、その気持ちはすぐに消えさる。
クオンは父であるエルグの性格が決して良くない事は分かっていた。
尊敬できる父、人の才能を見抜く力は抜群で、人を使うのもとても上手い。
クオンの祖父にあたる前国王が怪我で王位から退き、比較的若い年齢で即位したのにも関わらず、ティッシはとても安定している。

(父上ならやりかねない)

解決の糸口が見えない誘拐事件に囮を使うのは良くあることだ。
少し前から学院にミシェル・サディーラ嬢の姿が見えなくなり、彼女が囮になったのだとクオンは悟り、それとなくセルドに聞いてみればセルドもそう思っていたらしい。
そう、セルドと言えば普段と変わりない様子に見えた。

(セルドには言ってない?いや、ちょっと待て。クルス兄上とカイ殿が父上の命令で大人しく西に行ったという事は…)

ざっと顔色を変えるクオン。
そう、セルドばかりではない、クルスも全く気付いてないはずだ。

(シリンの部屋の中を確認して、確信してからクルス兄上に…)

そう思うが、クルスならばシリンの情報はわずかなことでもすぐに知りたいと思うはずだ。
この件について確証は持てないが、ここはこの情報をクルスにすぐにでも知らせに行くべきだろう。
クオンが敬愛するクルス・ティッシ第二王位継承者殿下の慕う、シリン・フィリアリナ姫が、解決できない誘拐事件の囮となった事を。

(父上が本当にシリンに頼んだのならば、絶対に犯人はかなり厄介な相手だ!)

クオンはシリンがあの見事な法術を使う事が出来る事を知っている。
同じくらいの年齢の優秀な令嬢でも、あそこまでの事は出来ないだろう。
セルドができるかどうか、である。
法術に関してかなり優秀な才能を持つシリン。
そして、誘拐事件に関して何の手がかりもつかめないのはそこに法術が絡んでいると思って間違いない。
だからこそ、シリンなのだろう。



クオンは西に向かって転移法術を何度か繰り返していた。
シリンが囮になったのだとすれば、エルグとシリンが同時に行動を起こすだろう日までそう長くはないだろう。
クルス達が辿る道程を調べてから首都を出れば良かったのだろうが、下手にこそこそ何かを調べてからではエルグに気づかれる。
クオンは人の気配を探りながら、こまめに転移法術を使って飛んでいた。

(さ、流石に、これだけ転移法術を連続して使うのは…)

すでに何度転移しただろうか。
クオンの息は上がっていた。
外に出るための最低限の装備はしているものの、それは本当に最低限だ。
ふいにクオンはぱっと顔を上げて前方を見る。
僅かにだが前方に複数の気配を感じたからだ。

(人?商人?…いや、あれは…っ!)

だっと走り出すクオン。
小さな影のようだったものが、だんだんと人の集団へと形を変えていき、それがティッシの軍でもあることが分かった。
クルスと甲斐が移動する一団はティッシ軍が正式に警護についた事は聞いていた。
彼ら2人が自分で自分の身を護れる程に強く、警護の軍もそう数は多くないだろうという事で大所帯ではないが、それでも一般的な行商の隊と比べれば大きい隊だろう。

「クルス兄上!!」

見慣れた亜麻色の頭を見かけてクオンはそこまで駆け寄る。
クオンの声に驚いたようにこちらを振り向く者が数名、ゆっくりと視線を向けてくるのはクルス。
驚いた様子すらも見せず、ふわりっと小さく笑みを浮かべてくる。

「どうしたんだい?クオン」

普段王宮で偶然合った時と同じような言葉を返してくるクルス。
クルスは落ち着くために小さく何度か深呼吸をする。
一気に走ってきたので息も乱れている。

「てか、なんでお前そんな落ち着いているんだよ。クオンが慌ててこんな所まで1人で来たって事は、首都で何かあったってことじゃないのか?」

大きなため息をつきながらそう言うのはクルスの隣に立つ甲斐だ。
ティッシ国内では、クルスと甲斐の仲はそれなりに良い方だと認識されている。
この道中もそれなりに良い関係でいるのだろう。

「首都で何かあるかもしれない状態の時に、私を遠方へと送る程兄上は馬鹿ではないよ」
「何だ、エルグ陛下の事、結構信じているんじゃないか」
「信用していることが必ずしもいい意味というわけじゃないよ」
「は?」
「それで、クオン。どうしたんだい?」

クルスはまだ何か言いたそうな甲斐を無視してクオンへ話を向ける。
真剣な表情でクオンはクルスを見る。

「クルス兄上は、ティッシ国内で起こっている未解決の誘拐事件はご存知ですよね?」
「犯人が魔族かもしれないという、あの事件だね」
「…は?魔族、ですか?」
「ああ、もしかして、クオンはそこまで知らなかったんだね」

思いがけない言葉に一瞬きょとんっとするクオンだったが、確かに誘拐犯が魔族であるというのならばシリンを囮に使った説明がつく。
たかが欲に塗れただけの一般人や小さな組織ならば、シリンが囮に出る必要などどこにもない。
その程度の相手ならば囮すらも必要ないだろう。
だが、魔族となれば話が変わる。
魔族というのは、人と違う獣の姿を持つ、東の海を越えた大陸にある国、オーセイの北方に住む種族だ。
その法力は人とは比べ物にならないほど強大、まともに対峙して勝てるような相手ではなく、過去にクオンの祖父に当たる前国王が引退する原因となった怪我は魔族によるものだと聞いたことがある。

「クオン、シリン姫に何かあったんだね」

すぅっと底冷えする様なクルスの声が響く。
その声にクオンはびくりっとなり、周囲の兵達の中には顔色をざっと変える者もいる。
一気に冷たい雰囲気を纏いだしたクルス。
こんなクルスを以前クオンは1度だけ見た事がある。
そう、シリンが朱里へ浚われた時だ。

「兄上は魔族が犯人である事をほぼ確定していたようだからね。浚われた場所を特定させて浚われた子達を取り戻すくらい、シリン姫が関わらなくてもできそうなものだと思っていたけど…、成程、私はティッシ内戦力の正確な実力を見誤っていたかな」

クルスがちらりっと警護のためにいる軍人に目をやれば、びくりっとあからさまに震える者、顔色を真っ青に変える者様々、まったく気にしないように身動きしない者はほんの2〜3人だ。

「魔族ってあの獣みたいな種族のことか?」
「そうだよ」
「そいつらって、オーセイから滅多に外に出ないって聞いてるんだけど、違うのか?」
「さあね。そんな種族の事なんて私にはどうでもいいことだよ」

この雰囲気のクルスに平気で話しかける事が出来る甲斐を、クオンはすごいと思ってしまう。

「クオン、シリン姫が囮として浚われたのはいつだい?」

クオンが詳細を説明しなくても、クルスは何故クオンがここに来たのか、今シリンの置かれている状況がどうなっているのかを理解したのだろう。

「ちょっと待てよ、クルス。それってまさか、その魔族犯人らしい誘拐事件の囮にシリンが使われたって事なのか?!」
「そうだよ」
「けど、それは確かなのか?」
「違う可能性は低いだろうけど、違うなら違うに越したことはないよ」

クオンとてシリンが浚われた所を見られたわけでもなく、フィリアリナの屋敷で盗み聞いた会話とフィリアリナ家の状況からの推測だ。
確証があるわけではない。

「けれど状況が状況なんだ。フィリアリナ夫妻は東、クルス兄上とカイ殿は西へ向かっている、セルドはセルドで建国祭の準備で追われている。そして、以前ミシェル嬢が囮になったはずなのに、事態の進展は全くなかった」

クオンが状況を説明する。
これだけの状況が揃っていれば、シリンが囮に使われた可能性は高いと思えるだろう。

「ここで魔族にあっさりと浚われることを許すという事は、今後も同じような事を許すことになってしまいかねないからね」
「だからって何でシリンを囮しようだなんて…」
「浚われる対象の姫の中で、魔族に対抗できそうなシリン姫がたまたまティッシに存在していたからだろうね」

10歳前後の少女で、強大な法力を持つ魔族に対抗できる子など普通はいない。
それなりの専門的な教育を受けている子ならば対抗できるかもしれないが、今はせっぱつまった戦時中ではない。
それに、専門的な戦闘教育を受ける姫など普通はいないのだ。

「クルス兄上、父上は決してシリンを危険にさらそうとしたわけではな…」
「そんな事は分かっているよ。シリン姫が魔族程度にどうかされるとは私も思わない。けれどね、クオン。私に黙ってシリン姫を利用した事に対して、私は怒っているんだよ」

クルスは曲がりなりにもティッシ国第二王位継承者の地位にある。
今回の誘拐事件の犯人が魔族であり、未解決のまま放置しておくことが何を意味するかを分かっている。
それはつまり、ティッシは魔族に屈服したと思われかねないという事だ。
ティッシ国の評価を下げる事は、他国からの侵略を許すことにもなりかねない。

「おい、クルス。まさか仕事放置してシリンを助けに行く気じゃないよな?」
「まさか。流石の私もそんな無責任な事はしないよ」

甲斐の言葉に軽く肩をすくめるクルス。
ではこのまま西へ向かう道程を中断せずに、シリンの事は放っておくのだろうか。

「シリン姫が浚われたとしても、場所も特定できない状態では、何もできないだろう?」
「そう、だよな」
「だから、恐らくシリン姫が行動を起こすだろう時に、私達も動けばいい」

ふっと笑みを浮かべるクルス。
クオンはそのような表情を浮かべるクルスを初めて見た。

「…は?ちょ、ちょっと待て、クルス。仕事は放置しないんだろ?」
「道中は特にやることなんてないだろう?」
「…それってつまり、途中で抜けて終わったら戻って来るって魂胆か?」
「誘拐された子達を救出するのにそう時間をかけるわけがない、1日でケリはつくよ。シリン姫が動いた時には必ず大きな法力がどこかで感知されるはずだよ」
「それを辿って転移するってわけか。…って、”私達”ってお前と誰だ?」
「私と君だよ、カイ」

甲斐は驚きで大きく目を開く。

「何?君はシリン姫を助けたいなんて思ってもいないわけ?」
「そうじゃねぇ!俺だって動けるもんならすぐにでも動いて、シリンの助けになりたいに決まってるだろ!」
「それならいいじゃないか。クルス・ティッシの名のもとに命じてあげるよ、カイ・シドウ」

結構無茶苦茶な理論である。
甲斐が動きたくても動けないのは、甲斐はティッシに朱里の代表として滞在している。
甲斐の行動一つで朱里への印象が変わってしまう。
ここで勝手にしようものならば、朱里とティッシとの和解の道は遠くなることが分かっているからこそ、甲斐は動きたくても動けないと思っていたのだ。
だが、クルスという王族の命令があれば違う。

「クルス兄上、ですが数時間といってもこの場を兄上が離れるのは…っ!」
「そのために君がいるんだよ、クオン」
「は…い?」
「第一王位継承者の君は、私の代わりを十分に果たせるよ。それに、…私と甲斐が数時間ほどいなくなったところで、この仕事に特に支障はない、よね」

ちらっとクルスは周りの人達へ視線を向ける。
クルスと同行している政務官2人は、クルスより政務官としては位が高いはずなのに思いっきり首を縦に振っている。
警護についているティッシ軍も同様である。
元副将軍職、第二王位継承者クルス・ティッシの怖さは、十分に伝わっているというのがありありと感じられる光景である。

「ク、クルス兄上…」
「何?不満でもあるの?」
「い、いえ…」

くすりっと甲斐が笑う声が聞こえた。
この状況で笑える彼は大物だ、とクオンは思ってしまう。

「けど、俺、法力封じられたままだぜ?」
「ああ、すぐ解くよ」

すっと甲斐の腕輪に人差し指を向けるクルス。

「汝を捕えしその力、白き月輝く夜の闇と、白き光輝く日の光の狭間を今解き放て」

ぱきんっと甲斐にはまっていたリングが綺麗に2つに割れる。
からんっと音をたてて地に落ちる、王族のみがその法力封じを解くことができるリング。
それを見ていた周囲の者達が、ぎょっとした表情をしたのは仕方ないだろう。

「こんなにあっさり解いてよかったのか?」
「ここにいる中で、魔族に対抗できそうなのは君くらいだからね。流石の私も、魔族相手に1人で余裕で勝てるなんて過大評価はしていないよ」

それに、甲斐だけをここに残しておくことは、ここに残す政務官とティッシ軍人に不安を与えることになりかねない。
クルスがいるからこそ、甲斐というイディスセラ族がいてもどうにか旅は順調だったのだ。
表面上は甲斐を恐れているようにはふるまわない彼らだが、甲斐1人を残されても困るだけだろう。

「いいかい、君たち。君たちは何も見なかった、何も聞かなかった、だよ」

クルスはにこりっとぞっとするような冷たい笑みを浮かべる。

「私と甲斐がここに戻ってくるまでの事がどうしても忘れられないようなら、綺麗に忘れるように法術かけてあげるよ」

普通に甲斐と会話をしていたクルスだが、怒っているのは変わりないようである。
ひっと政務官2人は小さく悲鳴を上げていた。
可哀想に、と同情を感じずにはいられないクオン。

「お前、相変わらず徹底してるよな」

どこか感心したような甲斐の言葉。

(そこは感心する所じゃないーー!)

内心叫ぶクオンだが、そんな事を口にできるはずもない。
凍えたような笑みを浮かべたクルスに対し、そのまま何でもないかのように話しかけていく甲斐。

「けど、久々に遠慮しないで力使えそうだ」
「遠慮なんて欠片も要らない相手だよ。万が一人間だったとしても、シリン姫を浚うなんて事をしてくれたんだから、全力で叩き潰して自分の身の程を分かってもらわないと」
「だよなぁ」

はははっと笑う甲斐とくすくすっと笑うクルス。
ものすごく怖いと思うのはクオンだけではないだろう。

(シ、シリン、無茶苦茶な要求だとは思うが、さくっと誘拐事件解決してこの2人を止めてくれ…っ!)

誘拐した犯人が魔族であるだろう可能性が高いとしても、そう簡単に解決できるような事件ではないと分かっていても、クオンはそう願わずにはいられなかった。
シリンでなければ、甲斐とクルスは止まらない。
逆に言えば、それを止めることができるシリンは、やっぱりすごいのかもしれない。


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