WORLD OF TRUTH 26.5
シュリとティッシの関係が変わらぬまま、シリンには日常が戻ってきていた。
体調もほぼ回復し、のんびりと読書に勤しむ。
両親は相変わらず忙しいようだが、兄であるセルドは学院で過ごす生活に戻り、シリンの所にたまに顔を見せてくれる。
シリンがシュリに浚われる少し前と、殆ど変わらない日常がここにある。
「今日は久しぶりのお休みだね、兄様」
「うん。色々あったから、こうやってゆっくりするのは久しぶりだよ」
本当にリラックスしているとでもいうように、セルドはシリンの部屋のソファーでのんびりとお茶を楽しんでいる。
「シリン、もう身体は平気?」
「大丈夫。庭を走り回っても平気なくらい元気になったから」
「それならいいけど…、でも当分は外出禁止だからね」
「うん、分かってる」
くすりっと小さく笑いながらシリンは頷く。
そんなシリンをじっと見ているセルド。
何か言いたい事があるだろうことが伝わってくる。
「ねぇ、シリン」
「うん、なに?」
セルドは口を開くが、その口からこぼれたのはため息。
そして、自分の気持ちを落ち着かせるようにもう1度小さなため息をつく。
「学院に行きたいって思ってる?」
シリンはセルドのその問いに目を開き、まじまじとセルドを見てしまう。
セルドから出てくる問いは、シリンが使った法術についてのことだと思っていた。
将来性のある法力量を持つ貴族の子だけが行く事が出来る学院。
どうして今更またそんな事を聞くのだろう。
「兄様、私前も言ったと思うけど、勉強嫌いだから学院に行きたいなんて思ってないよ」
法術についての勉強が半分程を占め、後の半分は政治や世界情勢などを学ぶ。
将来国の役に立てる人材であり、貴族である者だけが行く事ができる学院。
「そう、だけど…シリンはあの時、法術を使って僕と一緒に逃げたよね」
「あ…、うん」
「クルス殿下が説明してくださったよ。シリンは法術の才能があるから普通の人よりも少ない法力で多くの事ができるって」
(何をどうやって説明したんだろ、あの殿下は)
下手にシリンが言い訳して、クルスが言ってくれた言葉が無駄になってしまうのは困る。
ここは、必要以上に話さないほうがいいだろうと思い、シリンはセルドの言葉をじっとしながら聞く。
「僕なんかよりシリンの方が才能があるならば、シリンは学院に行くべきだったんじゃないかって思った」
ティッシで将来にとても期待をされているセルド。
そのプレッシャーはたった8歳の子供が背負うものではないほど大きい。
その期待は今も変わらないのに、シリンに才能があると言ったクルスの言葉がさらに重く感じたのか。
(兄様の目の前で法術使ったの、やっぱりまずかったかな)
空を飛ぶことや、空間転移の法術ならばセルドにだって出来るだろう。
だが、自分よりも法力が少なく法術の基礎しか知らないはずの妹が、中級以上の法術を使いこなしていた。
「僕はシリンよりも法力が大きくて、期待されていて、きっとシリンよりも出来る事がたくさんあって、シリンに対して優越感があった…と思う」
「兄様…」
「シリンを護る力が僕にはあって、たくさんの民を護る事が出来る力が自分にはあるんだって、自分の力を過信してた。自分がうぬぼれていた事を、今になってやっと気付けた」
期待を寄せられている、そしてその期待に応えることが出来る力を持っている。
同じ時に生まれた妹であるシリンにはそれがないがセルドにはある。
心のどこかでその状況であったことを喜んでいた事に気付いたのだろう。
「えっとね、兄様」
自分を責めているようなセルドに、シリンはゆっくりと言葉を選ぶように話す。
「生まれ持ったものは変えられないから仕方ないと思う」
法力の保有量というのはどうにかできるものではない。
桜に聞けば、遺伝子改良なり何なりして、人工的に法力を高める方法をとる事も出来るだろう。
だが、シリンはそんな事をしたいとは思わない。
「学院に行かなかったからこそ得る事ができたものは多いし、それに…」
シリンとセルド、両方に同じくらいの法力が備わっていたとする。
そうなっていたら、シリンはカイに会う事もなかっただろうし、クルスに懐かれる事もきっとなかった。
そして、法術理論を理解し、新しい法術を組み上げようとは思わなかったかもしれない。
「私の方こそ、兄様に大変なことばかりを押し付けてたって気付けなかった」
「シリン?」
きょとんっとするセルド。
まるで2人分の法力を持って生まれたかのようなセルドの法力量。
それは、セルドがずっと思っていたようにシリンが本来持つものだった法力がセルドに流れてしまったからだろう。
「法力が大きいと学院に行って国の役に立てるような知識と技術を身につけなきゃならないし、きっとやりたい事があってもそれが出来る身分じゃなくなる。私が生まれる前に兄様に色々押し付けちゃったから、兄様の自由が減って、兄様が選べる将来の道が少ないから…」
セルドこそ、色々な将来を選択できるシリンを恨んでもいいはずなのだ。
まだ10にも満たない子供。
シリンならば16年間香苗として生きてきた経験があるから、期待という名のプレッシャーがあっても、精神的負担は耐えられるかもしれないだろうし、もっと要領よく物事をこなしながら向けられる期待をするっとかわすことも出来たかもしれない。
「兄様が一生懸命頑張ってくれているから今の私があって、好きな事だけ学ぶ事が出来る環境もあって…、兄様にとても感謝、してる。けど、それにずっと気付けなかった」
確実に自分の方が精神上は大人なのだ。
それなのに大人でも大変だろう周囲の大きな期待を、全てセルドに押し付けてしまったようなものだ。
セルドにそれを押し付けたのは、決して故意ではなく偶然としか言いようがないことなのだが、押し付けられたセルドが悪かったわけでもない。
「…ごめんなさい、兄様」
シリンはセルドの顔を見れずに俯いてしまう。
「シリンが謝る必要なんてどこにもないよ。シリンが今のままでいいなら、僕は構わない。本当はシリンが学院に行かないで、屋敷にいてくれたほうが嬉しいし」
「うん。私も学院に行かないで今まで通りに屋敷でのんびり過ごすほうが好き。だって、勉強嫌いだもん」
にこっと笑みを浮かべて言ったシリンの言葉に、セルドはくすりっと笑う。
”勉強が嫌い”という言葉はシリンが良く使う言葉だ。
「勉強が嫌いな割には、シリンは良く本を読んでいるよね」
「興味がある事を知るのは好きなの」
「最近はどんな本を読んでるんだい?」
シリンの手元にある本をじっと見るセルド。
とんっと本をテーブルの上に立てて、表紙のタイトルが見えるようにする。
最近シリンが読んでいるのは、伝承の類だ。
「ティッシの昔の伝承の本だね」
「うん。私、今までこういうのはちゃんと読んでいなかったんだけど、結構面白いよ」
「ティッシの建国の事が描かれているから、確かに読んでいて損はないと思うけど…、シリンはたくさんの本読んでいたからその本の類のも、とっくに読んでいたのかと思っていたよ」
「子供向けの簡略化されたものなら読んだんだけど、詳細までは読む気になれなかったから…」
ティッシの建国時の話。
子供向けの本には、初代のティッシ王がどういう人で、頑張って国ができました…と、普通に読めばこの世界で1つの国が出来たというだけの内容だった。
子供向けの本を読んだばかりのシリンは、建国の状況よりも法術に興味があった為、詳細を知ろうとは思わなかったのだ。
(詳細を読んでみると、この世界が私が生きていた世界だって事に納得できる事が出てくるんだよね)
第三次世界大戦とは書かれていなかったが、大きな戦争があった事、そしてその前線で戦った人たち、それがティッシの始祖である事が明記されていた。
法力の大きい貴族や王族の先祖は、イディスセラ族と同様遺伝子操作された東洋人ではない人たちになる。
反乱を起こしたか、自分達を変えた人たちに従ったか、たったそれだけの違いで後の子孫の暮らしにここまでの状況変化が出てしまう。
「シリンは本を読む事が、楽しいんだね」
「興味ある事を知るのは誰だって楽しいと思うよ」
「そうだね。僕だって楽しい事はもっと知りたいって思う」
「でしょ?」
何事も夢中になれる楽しい事は、それについての勉強も苦ではない。
嫌々やる事は、どうあっても覚えるのが遅くなる。
最も、暗記の才能がズバ抜けている人ならば別だろうが。
「シリンは他の家の令嬢達とお茶やおしゃべりするより、家で読書をしている方が好き?」
「うーん、とっても仲がいい友人っていないから。多分、他の子達と私とじゃ話が合わないだろうし」
女の子同士で話をするのが嫌いなわけじゃない。
シュリにちょっとだけいた時、愛理と話せたのは楽しかった。
ただ、やっぱり貴族の感覚がシリンにはどうもついていけない。
「まぁ、シリンの場合はクルス殿下との噂があるから、そういうお茶会にはあまり出ないほうがいいのかもね」
「へ?…なに、それ?」
箱入りお嬢様のような状態のシリンは、貴族間での噂を知る事は少ない。
だから、クルスとの噂と言われてもそんなものがあることすら知らなかった。
「クルス殿下はここ1年ほど、シリンに会いにうちに来られることが多いよね」
「あー、うん。多い…かも」
クルスがフィリアリナの屋敷に正式に訪問してきたのは数えるほど。
数える程と言っても、今まで訪問すらした事もない屋敷に1年の間で数回ほど訪問すれば多いほうなのだろう。
実際はシリンの部屋に窓から侵入することが最低でも3日に1回だったという事実がある。
ここ最近は忙しいようで来ていないが、そのうちまた来るのだろうとシリンは思っている。
「最初の訪問は僕がシリンをお茶会に誘って、そこでシリンの具合が悪くなった事を心配していたからという理由があったけど、2度も3度も訪問する必要性はないわけだから、それで噂が出てきたみたいでね」
「私がクルス殿下をたぶらかしているとかって?」
その手の噂が出てくるかもしれない事は分かっていた。
クルスは実力もあり、性格は…まぁ、多少難アリな部分もあるだろうが、優しいには優しい。
顔立ちが整っている事については、貴族の殆どが綺麗揃いなので特に目立つ事もないが、クルスはとても目立つ雰囲気なのだ。
どう考えても見た目からして釣り合わないシリンが側にいるのを、良く思わない貴族たちはいるだろうことは分かっている。
「違うよ、シリン。表立ってフィリアリナ家の人間を貶める噂を流す人なんていないからそういう噂じゃない」
「そうなの?」
「シリンが考えているよりもフィリアリナの持つ権力は大きいんだよ」
名門であり、フィリアリナの名は大きなものである事は知っているつもりだ。
ただその影響がどこまでなのか、権力の大きさがどこまでなのか、平凡な一般市民の感覚を生まれ持っていたシリンが、未だに理解しきれないのは当然かもしれない。
貴族間のお茶会や、パーティーなどに出席していれば理解できたかもしれないが、まだ8歳のシリンがそのような場に出る事は殆どない。
「困った事に、”クルス殿下がシリンを婚約者にしようとしている”って噂が流れてる」
ぐっと息を止める事だけにとどめたが、はっきり言って噴出しそうになった。
少々口元を引きつらせながら、シリンはセルドを見る。
セルドは小さくため息をつきながら、困ったような表情をしている。
「に、兄様、私、まだ8歳でして、婚約とかものすごく早い話題な気がするんだけど…」
どうやら思ったよりもシリンは衝撃を受けているようで、言葉遣いが少しおかしくなってしまう。
「婚約話はこの年齢になれば早くはないよ、シリン。生まれる前から婚約者がいるって人だっているんだから」
「生まれる前…」
「幸い、クルス殿下は笑って否定していらっしゃるようだけど、クルス殿下に婚約の噂が流れたのが初めてだったから、なかなか噂は消えていないみたいなんだよ」
クルスに大層気に入られているのをシリンは自覚している。
だが、恐らくそこに”恋”と呼ばれるような感情はないはずだ。
しかしペットや物に対する感情とも違い、一番近いのは身内へ愛情だろう。
(ただ懐かれてるだけなんだけど…)
実際のクルスとシリンの様子を見れば、噂がただの噂ではないと思う人は多いかもしれない。
シリンに心からの優しい笑みを浮かべ、シリンに対しては感情豊かに甘える。
「クルス殿下を想い慕う令嬢は多いからね、シリン」
「うん?」
「その噂の事でどこかの家の令嬢に何かされたら、ちゃんと言うんだよ」
「うん、分かった」
にこりっと笑みを浮かべあっさり頷くシリン。
セルドはじっとシリンを見つめる。
「シリン、本当に分かってる?」
「大丈夫、本当に分かっているよ、兄様」
クルスを慕う令嬢と言っても、所詮はお嬢様。
出来る事といえば、陰口くらいだろう。
以前はカイのいた牢屋に放り投げられたという事もあったが、やってもきっとそのくらいまで。
毒入りの食べ物や飲み物をフィリアリナ家の食卓に出す事などもできるはずもないだろうし、そこまでの事をする令嬢がいるとは思いたくない。
(何かあっても、法術使えばなんとかなるかもしれないし)
シリンが気楽に考えているのは、相手が貴族の箱入り令嬢ばかりだろうからだ。
これに政治が絡んでくるとなると、本格的に身を護る手段を考えなければならないだろうが、今はその必要もないだろう。
「兄様の方はそういう噂はないの?」
「ないよ。僕はシリンが一番可愛いって思ってるからね。シリン以上の子じゃないときっと駄目だろうし」
兄馬鹿…とシリンが心の中で思ったのは仕方ないだろう。
「見た目って意外と関係ないんだよ、シリン。僕は、笑顔で僕を元気付けてくれるシリンが大好きだからね」
「私も、一生懸命頑張っている、セルド兄様が大好きだよ」
にこりっと互いに笑みを浮かべるセルドとシリン。
シリンにとって、セルドは護りたい存在で笑っていて欲しい大事な兄。
セルドにとって、シリンは護りたい存在で笑っていて欲しい大切な妹。
どちらも互いを護りたい、笑っていて欲しいと想っている。
この絆は、互いが成長しても変わる事がない絆なのだろう。
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