― 朧月 01




朧月
―おぼろづき。

水蒸気に包まれて、柔らかくかすんで見える春の夜の月。

それは幻のようで、目の前に見えてもつかめないかのような存在。
皆は”彼”の事を噂と名でしか知らない。
表の世界では”彼”の存在はないかのように、その噂さえ聞かない。
裏の世界の者のみ、”彼”の存在を耳にする。

「俺が”生きている”限り、君は生き続ける」

静かな声。
男性の声だろうが、低めの女性の声にも聞こええる。
性別が確定できない、それが朧月。

だが、朧月はもういない。
”彼”が倒れ、その命が消えていく様を見た者がいるから。
人の命は永遠ではない。
寿命や病、そして怪我、事故。
様々な理由があるだろう。
原因を知る者は恐らく”彼”だけだ。

「わたくしが存在していられる。マスター、貴方はどこかで生きているのですね」

女性の声が響く。
それは確かに女性だと分かる声。
誰かを慕うような声。
とても切なく、希望をこめたような願いの声。

「貴方を探します」

祈りのような、願い。

「貴方がわたくしの全てです」

泣きそうなほどの切ない願いを叶えてあげたい。
何よりも、君を1人にしたくない。
”俺”がそう思うから……。


―ミスティ





唐突に彼女はがばっと起き上がる。
カチカチっと秒針の刻む音が部屋の中に響く。
窓のカーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。

「また、あの夢…」

妙にぱっちり目が覚めた気分だ。
彼女ははぁっと大きなため息をついた。
ここの所、妙にはっきり見る夢がある。
男性と思われる声と女性の声。

「嫌だな〜、なんかに憑かれたとかかなぁ…」

冗談交じりに呟いてみるが、それが本当だったらものすごく嫌だ。
だが、悪夢というわけでもないのだが、同じようなしかも妙にはっきりした夢を見るのはあまり良い気分ではない。
彼女はばっと起き上がって時計を見る。

「7時………半?」

何気なく目をやった時計だったが、時間が時間だ。

「ち、遅刻ーー!」

一瞬ぴたりっと動きを止めたが、次の瞬間ばっとすぐに行動を開始した。
少し寝癖のついた茶色を帯びた髪をざっと櫛でとかす。
すばやく制服に着替えて、だだだっと家のキッチンへと駆け込む。

「お母さん!!」
「はい、お弁当よ」

キッチンに駆け込めば、にっこりと笑顔でお弁当の袋を差し出す母。

「起こしてくれてもいいじゃない!」
「ちゃんと1度声はかけたわよ」
「う…」

お弁当を受け取りバッグの中に急いでしまう。
キッチンのテーブルの上に置かれていたおかずを少しだけつまむ。

「朝食は?」
「食べている暇ない!」

そう言って駆け出そうとした彼女に、母はぽんっとカロリーメイトを一本投げて寄越す。

「それだけじゃ足りないでしょう?学校に行くまでに食べちゃいなさい」
「うん、ありがと!」

受け取ったカロリーメイトを口にくわえて、玄関へと向かう。
バッグを肩にかけて、ばたんっと玄関のドアを開けて駆け出す。
普段はこんな寝坊などしない。
今日はどうも、夢を長く見すぎてしまったようだ。

夢につかりたいほど、現実逃避しているつもりはないんだけどなぁ…。


、17歳、高校2年生。
秋の今は丁度来年の受験の事をそろそろ考えなければいけない時期だ。
は成績もそんなに極端に悪くもなければ、素行も極端に悪くもなく良くもなく。
あえて言うなら少し大人しい性格で、特に目立たないような普通の生徒だ。

「ぬぬ、近道すべきか?」

大人しい生徒でも内面はそうでもないこともあるものだ。
はその典型的な例かもしれない。
人に慣れるまで時間がかかるが、慣れてしまえば地を出せる。
学校では巨大な猫を心の友に、大人しい生徒をずっと続けている。
かといって、友人の前でも常に大人しい子であるわけでもないのだが、表面しか見えないだろう学校での評価などではそんなものだろう。

「遅刻するのはまずいし、こっち行こう!」

は大人しい生活を続けてきた為か、目立つ事を極端に嫌う。
クラスのリーダーなどなりたくないし、素行や成績が悪くて目立つのも嫌だ。
だから、そこそこ勉強し、そこそこ真面目に過ごす。

「よし!間に合う!」

腕にはめた時計を見て、うんっと強く頷く。
が今小走りで進んでいるのは人気のない小道。
知る人ぞ知る学校への裏道らしい。

「ここを曲がれば…!」

小道を出れば校門はすぐ側だ。
門が閉まるまでまだ5分ほど余裕がある。
よかったっとほっとしていただが、曲がった先にあるはずのものが見当たらなかった。

「へ…?」

小道を行って突き当たりを曲がれば、校門が見えるはずだった。
そして校門の先には校舎があるはずだったのだ。
だが、目の前に広がるのは森…と小さな屋敷。
はばっと後ろを振り返ってみる。

「うっそ…」

後ろにあったのは見慣れた小道ではなく、見慣れぬ森だ。
まるで一瞬の瞬きの間に移動してしまったかのような。
ついさっきまでは普通の小道だったはずなのだ。
呆然と立ち尽くす

夢の続き?のわけないだろうし。
そもそも夢だったらこんなにリアルじゃない。
あの夢はリアルにはリアルだったけど、やっぱり夢っぽい感じが残ってたし。

混乱中のだったが、少し咲きに見える屋敷から人が出てくるのが見えた。
淡い蒼の長い髪をした黒尽くめの衣服を着込んだ女性。
その瞳は金色に輝いていた。

あ、有り得ない色…。

そんな事を思いながらも、出てきた人が普通の人の形をしていた事にほっとする。
面妖な形をした生き物が出てきたらどうしようか、と思っていたからだ。
彼女がの姿に目を留めた瞬間、ぱっと彼女の表情が変わる。

「マスター!!」

満面の笑顔での所に駆け出してくる。
驚いたのはの方だ。

ま、マスターって何?!

ぎゅっと彼女に抱きしめられる。
遠目で見ていたよりも彼女は長身で、よりも背が高い。
彼女のやわらかい身体に抱きしめられ、はなんとなく懐かしい気持ちになる。

あ、なんかものすごく懐かしくて…、この人の事知っている?

彼女の顔を見上げれば、彼女はボロボロ涙をこぼしていた。
流石にぎょっとする
自分が泣かせてしまったのだろうかと慌てる。

「マスター、はやり生きていたのですね。どこかで生きていると、絶対に戻ってきてくださると思っていました」

涙をぬぐってにこりっと笑みを浮かべる彼女。
自分の腕の中からを解放し、地に膝をつけを見上げる。

「あの…?」
「混乱されているのも無理はありません。きっとマスターには記憶がないのでしょう。でも、マスターはマスターに変わりありません」

の手をとって優しげな笑みを見せる彼女。

「人違いじゃありませんか?」
「いいえ、わたくしがマスターを間違えるはずがありません。そのオーラはマスターに間違いありません」
「オーラ…?」
「その記憶もないのですね」

ふっと彼女の表情が寂しそうなものになる。
それにの心がずきりっと痛む。
何故か彼女の事が懐かしい、悲しませたくないと思う。

「わたくしはマスターが全て。わたくしはマスターがいなければ存在できません。貴女がわたくしの全てなんです、マスター」

あれ…?
その言葉、どこかで聞いた覚えがあるような…。

― 貴方がわたくしの全てです

夢の中の女性の声と目の前の彼女の声が重なる。
考えてみれば声はそっくりと言っていいほど似ている。
そして言葉の意味。

あれ?あれ?
まさか…。

偶然にしてはここまでの一致は怖い。

「マスターがどのような形であっても、その輝きのまま存在してくれる事だけで、わたくしは嬉しいです」

は冷や汗をだらだらと流す。
嬉しそうな感情を隠さずを見る彼女。
夢の女性と一致する声と言葉の持ち主である彼女。
一体この状況は何なのだろう。

「あの、私には何がなんだか分からないんですが…、本当に人違いではない?」
「それはありません」

の言葉をきっぱりと否定する彼女。

「混乱しているのですね、マスター。無理もありません。事情をご説明します、とにかく屋敷の中にお入り下さい」
「はあ…」

的にはかなり大きいと思われる屋敷の中に促される。
じっと彼女を見つめる
の視線に彼女はにっこりと笑みを浮かべる。
どこか知っているような懐かしいと思える彼女。

悲しませたくない。
1人にして悪かった。

そんな思いが頭の中をよぎる。
夢でもそんなことを”自分”は思っていた。
だからだろうか。
彼女が大切だったのは、彼女の名づけ親が”自分”で、彼女を”創り出した”のも”自分”で、親のような存在だったから。
そう、自分があの名ならば彼女の名は……

「ミスティ……?」

呟くようなの声に、ぱっと彼女が振り返る。
そして満面の笑みを浮かべた。

「はい、マスター」

その名に応える声と共に…。