WOT -second- 20



クルスと甲斐は無事にというべきか、このティッシの首都を発ったようだ。
シリンが見送りを出来るような立場ではないので、行ったことを話に聞いたのみ。
このティッシは広い。
城があるこの首都は随分大きな街で、朱里からは比較的近い場所にある。
ティッシの最西端は首都から最も遠く、確かに馬で移動した場合はかなり時間がかかるだろう。
法術という便利なものがあるのにも関わらず、民が法術を使えないからか、ティッシでは緊急以外では転移法術を使わないようだ。
最も、転移法術は中級以上の法術に類されるので、正しく使えるものがそう多くないというのも理由の一つではあるだろうが。

(何事もなく、無事に帰って来てくれれば何よりだけど…)

甲斐とクルスは普段喧嘩ばかりだが、決して仲が悪いわけではないとシリンは思う。
何かあれば協力し合うことに反発を抱かない程度には、仲が良いはずだ。
だから、何かあっても協力し無事で帰ってきてくれるだろうとは思うのだが、不安が全くないわけではない。

(私は、とりあえずこの指輪の法術陣をすべて解読する事に集中するかな)

自分の部屋でいつものようにお茶を楽しみ、シリンはテーブルに指輪の法術陣が描かれた紙と自分の解読メモの用紙を広げる。
この時代にシャープペンなどという便利なものはない。
紙がものすごく貴重というわけではないのだが、あの時代のようにざくざくと使えるようなものでもなく、そしてペンは羽ペンでインク使用だ。

(レポート用紙とシャープペン一式ないか今度聞いてみよう)

どうにもこうにも書きにくいのだ。
法術陣をじっと見つめながらも、シリンの頭の中では解読が進む。
もう半分以上は解読でき、色々な事ができるようになっている。
そしてこの法術陣がきっかけで、指輪がなくても身体にあまり負担がかからないように法術を使う方法も思い浮かびつつある。

「これはこれは、随分と複雑怪奇な法術陣だな」
「本当ね…」

背後から聞こえた声に、シリンはびくりっと盛大に驚きがたんっと音をたてて椅子から勢いよく立ちあがる。
ここはフィリアリナの屋敷、シリンの部屋の中だ。
基本的にシリンの了解なくこの部屋に入ってくるような人はいない。
例外として、非公式に訪問するクルスくらいだろう。

「エ、エルグ陛下…と、シェルファナ様……」
「先日ぶりだな、シリン殿」
「こんにちは、シリン姫」

興味深そうに視線はちらりっと法術陣の用紙に注がれたまま、シリンに対してにこりっと微笑むのは、いつの間にかシリンの背後にいたエルグとシェルファナである。
この2人はティッシの国王と王妃であり、決してシリンの部屋にひょっこり現れるほど暇を持て余してはいないはずだ。

「忍び込むというのも、なかなかワクワクして楽しいものだな」
「あなたとこっそり逢引していた時の事を思い出すわ」
「そうだな」

笑みを浮かべている2人に、シリンはなんとコメントしていいか分からない。
一体何の用があるのか。
というより、クルスが忍び込んでくるのは慣れたからいいものの、同じようなことをしないで欲しいものである。
心臓に悪すぎる。

「お久しぶりです、エルグ陛下、シェルファナ様。もし、ご用があるのでしたら、きちんとした応接室へ…」
「いや、内密の用件でな。あと数時間すればグレンとラティも来る。その前に簡単な説明をしたかったんだ」
「父様と母様も、ですか?」

どんな用件なのだろうと考えるシリンは、シェルファナが興味深そうにテーブルにある法術陣の紙をじっと見ているのが目に入る。
すでに見られてしまって、見た所で何があるわけでもないのだが、シリンはばさばさっと急いでその紙を片付ける。

「すみません、ちらかっていまして…」
「ごめんなさいね、違うのよ。ちょっと大叔父様を思い出したの。シリン姫は、少し私の大叔父様に似ている所があるわね」
「確かに似ている部分があるだろうが、シリン殿にはあそこまで嫌味な爺にならないで欲しいものだな」
「あなたは大叔父様が嫌いだったものね」
「散々邪魔されたからな」

大きくため息をつくエルグ。
他国から嫁いできたシェルファナの事をよく知る者は殆どいない。
シリンが知っているのはシェルファナがこの国の人ではなかったということくらいだ。

「シェナの大叔父については、そのうち話す事もあるだろうが、今日の話はそれじゃないだろう」
「そうね。グレンとラティには本当に申し訳ないのだけれども、やっぱりシリン姫くらいの子じゃないと無理だものね」

一体何の話をしているのだろう。
ものすごく嫌な予感がするのは気のせいだろうか。

「あの、一体何のお話を…?」

事情がさっぱり分からない。
何かをシリンに頼みに来ただろう事は分かる。
恐らくそれが厄介事であろうことも何となく気づいている。

「数時間後にグレンとラティが戻ってくるのは先ほど言ったな」
「はい」
「その後すぐに、私とシェナが正式にこの屋敷に訪問する事になっている」
「…はい?」

正式に訪問する事になっているのならば、何故今ここにいるのか。
ただ忍び込みたかっただけという理由ではないだろう。
エルグ・ティッシという人間の行動に意味がないものはない、とシリンには思えるのだ。

「シリン姫への頼みごとは正式なものよ。けれどね、私とエルグが望むのは”正式な依頼”以上の事」
「正式な依頼以上の事、ですか」

それはシリンが法術を使えるという事を考えて、との事なのか。
その場で法術を組み上げ、臨機応変で対応できるだろうシリンに期待するだろう事。

「詳しく説明しよう、シリン殿。だが、その前にお茶をもらえるかな?」

正式に訪問してきたわけでもないエルグとシェルファナ。
クルスが不法侵入してきている時にも、流石に誰かに頼むわけにはいかないので、お茶を用意するのはシリンだ。
最近ではクルス、甲斐、シリンの3人でのお茶の時間が多いので、カップも余分にあるから構わない。

「分かりました、準備しますのでそちらにかけて待っていて下さい」

小さくため息をつき、シリンが示したのは窓際にある小さなソファー。
一応3人くらい腰掛ける事ができる大きさである。
クルスと甲斐、シリンの3人の時は大抵そこでお茶をしているのだ。



ふわりっと暖かな湯気を立ち上げるのは、程良い大きさの茶碗にある緑茶。
お茶うけがお煎餅しかないので、あえて緑茶にしてみたのだ。
最初は珍しそうに見ていた2人だったが、どうやら気に入ったようである。

「シュリのお茶もいいものだな」
「私もクルスみたいに、たまに来てもいいかしら」
「ああ、いいな。その時はぜひ私も誘ってくれ、シェナ」
「…頼みますから絶対にやめてください」

冗談か本気か分からないが、本当に絶対にそんな事はしないで欲しい。
クルスはいいが、エルグとシェルファナはまた違う。
心臓によろしくない方々に気軽に来られても、あまり嬉しくないのだ。

「シリン殿は、令嬢誘拐事件の事を知っているか?」

世間話でもするかのように、エルグは重く感じないようにしたいのか気軽な感じで話題を出す。
その言葉に頷くシリン。
その噂だけは耳にしたことがある。
実情がどういうものかは分からないが、まだ解決していないだろう事も。

「噂は知ってはいますが、詳しくは知りません」
「まあ、事件にかかわっていない限りはそんなものだろうな」

エルグは小さく息をつき、すぅっと目が変わる。
真剣にシリンを見る。

「その事件はまだ解決していない。浚われた令嬢がどこに連れて行かれたのか、ティッシ国内、国境付近も全て捜索したが全く見つからない。そこでしばらく前に囮を使った」
「けれど、それが失敗したのよ」
「失敗…ですか?」

誘拐事件で囮を使い、囮を見失ったということだろうか。

「誘拐された令嬢の後をつけ、連れていかれた方角までは分かった。だが、その方角にはただの森で誰かがいる様子も、人の気配すらも感じられなかった」
「そこから法術で転移したのではないでしょうか?」
「その可能性もあるわ。他の可能性も考えられるのだけれども…」

シリンはそこで不思議に思う。
誘拐犯が誰であれ、転移法術を使ってしまえばあっという間に逃げる事が可能だ。
エルグがその可能性を考えていなかったとは思えない。
シリンがそう思っていたのが分かったのか、エルグとシェルファナは苦笑する。

「シリン殿が思っている以上に転移法術というのは高度な法術なんだ。自分のみの転移は中級法術だが、同行者がいる場合は高位法術に位置している。ナラシルナのように転移法術陣の補助があれば別だろうが、法術陣の痕跡はなかった」
「そう、なんですか?」

どんなものが高位な法術で中級法術なのかシリンに判断はつかない。
転移法術が決して簡単ではないものだろうことは想像つくが、エルグの言い方では相当難しい部類に入ると思える。

「転移されて見失う可能性も考えて、囮になってくれた子には浚われたらそこから”外”へ連絡をするようにある法術具を渡してあったのよ。でもね、その連絡も全くないの」

法術具とはシリンがつけている指輪のような、法術陣が刻まれて法術が発動できるもののことを言う。
エルグから贈られた手鏡のそれにあたり、金さえ積めば誰にでも手に入る手軽なものから、複雑な法術を使える事が出来るような高価なものまで様々だ。

「あの子も学院では優秀な方で、これで解決するだろうと思っていたのが甘かったようだ。どうも、誘拐犯が考えていた最悪の相手である可能性が高い」
「それって、誰が犯人か分かっているということですか?」
「確証はない。だが、ミシェル姫では確かに荷が重いだろうと思える程に厄介な相手ではある」
「ミシェル姫?」

聞き覚えのある名前だ。
そう、シリンとセルドの誕生日パーティーの時に来ていた、フィリアリナ分家の貴族の令嬢で、シリンよりも1つ年上の可愛らしい少女。

「フィリアリナ家分家のサディーラ家の子よ、知っているかしら?」
「1度会ったことはあります」

どうもミシェルはシリンにあまりいい印象を抱かなかったようだということは覚えている。
あと、どうもセルドが好きらしいということも。
そのミシェルが囮となって、どうにか犯人を捕らえよう、もしくは浚われた子達を助けようとしたがそれは失敗。
ミシェルは浚われたまま、浚われた令嬢たちがどこにいるかも分からない。
だが、エルグはその犯人が誰だか想像がついており、かなり厄介な相手である事が伺える。

「あの…、なんとなく頼みごとの想像がついてきたのですが、もしかして」

ここまで話が進めばシリンでもエルグが何を言いたいのかなんとなく分かる。

「そうだな、ここまで言えば分かるか。そう、シリン殿には囮を頼みたい」

(やっぱり…)

犯人が誰か想像がついているのにも関わらずエルグは何もしてないようなのだ。
それは動かないのではなく、動けないのだろう。

「シリン殿には、ミシェル姫と同じように連絡用の法術具を持たせる」
「それを使ってどうにか”外”に連絡を取れるようにして欲しいの」
「あちらの状況がどうなのか分からない状態では、強行手段に出る事もできないからな。欲を言えば浚われた子達の状況も知りたいものだ」
「法術具にはメッセージを入れる事も可能なのよ」

浚われた令嬢達が捕えられている場所の検討がついているとして、そこで強行手段に出たとしても、彼女たちがどうなってしまうか分からない。
しかも浚われたのは貴族の令嬢でそれぞれの両親は、このティッシ内でそれなりの役職にある者ばかり。
未解決で放っておく事などもっての外である。

「ですが、その誘拐犯がまだ誰かを誘拐しようとしているかどうかは分からないのではないのでしょうか?」

シリンが囮になったところで、その囮に引っかかってくれるか分からない。
もう十分だとばかりに、ティッシから引き揚げて国外逃亡でもしていたらどうなるのだろう。

「その点は安心してくれていい。何が何でもシリン殿を浚ってもらうよう情報操作をするからな」

(そりゃ、浚われなきゃ囮の意味はないんですが、何が何でも浚わせるってどうなんでしょう?)

突っ込みたい気持ちをどうにかこうにか抑える。
一応エルグはこのティッシ国王陛下だ。
お気軽にノリ突っ込みができるような相手ではない。

「シリン殿が無事に浚われてくれれば、あとはシリン殿がどうにか”できる”だろう?」

すっと真っ直ぐな視線を向けられ、エルグは小さく笑みを浮かべている。
予想外の事態が起こってもシリンならばどうにかできると、認めているということか。

「はい、勿論です」

認められているのならば、それに応えたいと思ってしまうのは決して間違いではないだろう。
性格が悪く、何を企んでいるか分からないが、エルグに認めてもらうのは嬉しいのだ。
上に立つ者として相応しいとシリンが感じているからか、それに応えたいと自然と思える。
シリンは自覚がなかったが、そのやりとりは、エルグに仕える者であるかのような受け答えだった。
決してエルグに仕えたいと思っているシリンではなかったが、自然とシリンにそうさせてしまう何かがエルグにはあるのだろう。
これがきっかけで、その後もシリンはエルグに裏から依頼を持ちかける事になるのだが、この時のシリンはまだそれを知らない。


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