WORLD OF TRUTH 29.6



大きなため息を1つ。
それからゆっくりとカップの”緑茶”を口につける。
昨日は甲斐とのお茶の時間にクルスが来て、その空間は始終ピリピリした雰囲気だった。
リラックスできるはずのお茶の時間で余計緊張してしまった。

(何度か3人でお茶すれば、あの雰囲気も変わるのかな…)

シリンは向かいに座って同じようにティーカップで緑茶を飲んでいる甲斐を見る。
午前中に甲斐と一緒にお茶の時間。
これは殆ど恒例になってきている。
毎日というわけではないが、1週間の半分はこの好例お茶会をしている。
甲斐とお茶をする時は屋敷の庭ばかりで、今日も屋敷の庭でのんびりお茶会。
シリンの部屋に招いてもいいのだが、それはセルドが大いに反対したのでできなくなってしまっている。

『やっぱ、緑茶が一番だよな!』
『カステラとか羊羹、お饅頭がお茶うけだと緑茶が合うよね』
『だろ?ティッシの菓子類は甘すぎな上にお茶も甘味があるってのがな〜』

本日のお茶うけはカステラである。
桜はとても器用で煎餅をはじめ、カステラ、羊羹、お饅頭などなど色々な和菓子を作ってくれる。
シリンもいつか自分で作れるようになりたいものだが、この8年間料理をした事がないのでまずはそこから始めるべきだろう。

『にしても、シリン』
『ん?』
『オレ、今ティッシの人間にイディスセラ語を教えているんだけどさ。カタコトで話せる奴はいるんだけど発音がものすげぇ下手くそで、けど、ティッシの中じゃソレが一番話せるヤツらしいって聞いたんだよな』
『まぁ、イディスセラ語と共通語は発音と文法が違うし、イディスセラ語は表現とかも難しいしね』
『それはオレも思う。…じゃなくてだな!シリンはすっげぇ綺麗な発音だろ?どうやって覚えたんだ?』

フィリアリナ家の人間でイディスセラ語を話せる人はいないらしい。
父のグレンは単語を少しだけならば聞き取ることができるようだが、本当に少し聞き取ることができるだけのようである。

(というか、今更その質問が来るんだ…)

シリンがイディスセラ語を話せる事が分かった時点で突っ込まれるかもしれないと思っていたが、あの時は状況が状況だったからか、それともティッシで綺麗に話せる人もいるのだと思っていたのか。

『うーん』
『もしかして、聞いちゃ駄目なことだったか?』

心配そうな表情で尋ねてくる甲斐。
確かに聞かれて困ることであり、人にひょいひょい話せるような内容ではない。

『今すぐに話せるような内容じゃないから、話せるようになってからじゃ駄目かな?』
『複雑な事情でもあったりするのか?』
『まぁ、そこそこ複雑…かな?』

シリンがイディスセラ語を綺麗に話せる理由を話すという事は、日本の事、この世界の過去のことまでずるずると話さなければならなくなりそうなのだ。

『その事情って、やっぱりクルスも知ってるのか?』
『クルス殿下?ううん、知らないよ。だって、クルス殿下は私がイディスセラ語を話せることすら知らないはずだし』

シリンは生まれてから”日本語”を話した事はない。
この国の言葉が”日本語”ではないと分かっていたから、話しても通じないだろうと思い口にしたことがなかったのだ。
だから、”日本語”を話せる人しかシリンがイディスセラ語を話せる事を知らない。

『知らないのか…。そうか、知らないんだな』
『クルス殿下とイディスセラ語で会話する事なんてないからね』
『そう言えば、そうだよな』

うんうんと頷きながら納得する甲斐。
シリンはそんな甲斐の様子にくすくすっと笑う。

『じゃあ、そのうち…』

聞かせてくれよ、とでも言いたかったのか、甲斐の言葉が途中で止まる。
ふっと気を許したような表情だったものが、少し警戒するものへと変わる。
周囲に何か変化でもあったのか、と思うシリンだが、生憎とシリンには気配を探るような事はできない。

「緑茶ありがとな、シリン」

どこか作った笑みを浮かべて甲斐が共通語で話しだす。
シリンと甲斐の2人だけの時はイディスセラ語で話すのが普通になっていて、周りに誰かいたり、クルスが乱入してきたりすると言葉は共通語に変わる。
誰かが近づいてきているのが甲斐には分かったのだろうとシリンは判断し、落ち着いた様子でにこりっと笑みを浮かべる。

「甘くないお茶の方が太らなくていいから私にも丁度いいし、お礼を言われるほどの事じゃないよ」
「けど、オレにとったら朱里のお茶の方がほっとするんだよな」
「緑茶って、飲むとなんとなくほっとする感じだよね」

そう言ってカップを口につける。
と同時くらいか、すぐそばからふわりっと風を感じた。
庭でのお茶会なので、風を感じても不思議はないのだが、シリンは風を感じた方に目を向ける。

「随分と楽しそうだね」

ふわりっと風と一緒に庭へ舞い降りてきたのはセルドだった。
学院の紫紺の制服を着たセルドの姿を見るのは久しぶりだ。
屋敷にいる時にまで制服を着る事もなく、学院に行けないシリンを気遣っているのか、シリンの前でセルドはあまり制服姿を見せないようにしているようなのだ。

「セルド兄様?何か緊急の用事でもあったの?」
「いや、別に用事はなかったんだけどね、ちょっと時間ができたから、たまにはこっちに戻ってシリンの顔でも見てこようかなって」
「屋敷に戻ってきて大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、シリン」

にこりっと笑みを浮かべてはいるが、セルドの目は笑ってはいなかった。
ぎこちないセルドの笑みを見るのは初めてだ。
時間ができたというのは本当だろうが、いつもならばそれだけで屋敷に戻ってくることはなかっただろう。
今日わざわざ戻ってきたのは、甲斐が屋敷にいると分かっているからなのだろう。

(兄様、普通に玄関から戻って来たなら甲斐も警戒しなかったはずのに)

それだけシリンの事が心配で仕方がなかったということだ。
シリンと甲斐がお茶をしているというのは、両親もセルドも恐らく知っている事。
別に隠しているわけではないし、お茶の準備をメイドに任せる事もあるのだから知られていると考えるのが普通だろう。

「カイさん、シリンはご迷惑をかけていませんか?」
「…いや、迷惑なんて全くないから平気だ」

互いに浮かべている笑みはぎこちないもの。
セルドも甲斐もクルスのように綺麗に自分の感情を隠しきることがまだできないのだろう。
お互いがお互いを少し警戒し、自然に笑みを浮かべられる相手ではない事に気づいている。

「シリンはのんびりとしていてもいいのかな?」
「うん。やる事もないし、読書は甲斐がいない時でもいいし」

学院に通わない貴族であるシリンのできる事など少ない。
だからこそかなり興味を持った法術に対して、あれだけの事を出来るようになったのだがそれはセルドは知らない。

「シリン、もしかして屋敷の本はもう読み終わった?それなら今度、学院の図書館を利用できるか聞いてみようか?シリンは法術の才能があるってクルス殿下がおっしゃっていたし、学院の図書館になら法術の本もたくさんあるし」
「ううん、読みたい本はまだたくさんあるから平気だよ、兄様」

(それに恐ろしい事に、エルグ陛下からたまにひょっこり本が送られてくる事あるし…)

何を考えているのか分からないティッシ国王陛下は、シリンに他国について書かれた…しかも結構詳しく…本を送ってくる事があった。
まだ2冊ほどしかもらっていないのだが、返品しようにもシリンがエルグに何かを送る事が出来るはずもなく部屋に置きっぱなしである。

『シスコンか?』

ぽそっと小さな声だったが、甲斐がイディスセラ語で呟く。

「兄様は昔からこうだよ」
『にしたって、甘すぎだと思うぜ?オレだって妹いるけど、ここまで甘くしようだなんて絶対に思わねぇし』
「愛理可愛いのに?」
『中身が全然可愛くねぇの、あいつ』
「そうかな?すごく良くしてもらった…」

そこでぴたりっと言葉を止めるシリン。
イディスセラ語で呟いた甲斐の言葉に普通に反応し、さらにイディスセラ語で話す甲斐に普通に答えてしまった。
”日本語”が理解できるので、イディスセラ語で話しかけられても普通に対応してしまう。
とりあえず甲斐のイディスセラ語に対して共通語で対応しただけでも良かったと言えるだろう。

「シリン、いつの間にイディスセラ語が理解できるようになったんだい?」

心底驚いたようにシリンを見るセルド。

「なんとなくしか分からないけど、甲斐と話をしているうちにできるようになったの」
「なんとなくしか分からないようには見えなかったけれど…」

セルドの言葉に内心ギクリっとするが、シリンは見事にその感情を隠し通す。
にっこりとセルドに怪しませないように笑みを浮かべる。
セルドの言葉に間を置いた時点でセルドの言葉を肯定しているようなものだが、そんな事は思わせないようにシリンはきょとんっとする。

「そうかな?甲斐とはたくさんお話しているから、言いたい事が分かるだけなのかも」
「それって言いたい事が分かるほど多く会話をしているってことだよね」

シリンは甲斐をちらっと見る。

「まぁ、1日に1回は会話らしきものはしてるよな。お茶するのは別として」
「私にはイディスセラ語が覚えやすかったしね」

にっこり笑みを浮かべるシリンに、甲斐は無言で視線のみをシリンに向ける。
甲斐はシリンがイディスセラ語を綺麗に話せる事を知っているだけに、何か言いたいのだろうが、言えないというところか。

「随分と仲良くなっているんだね、シリン」
「うん。だって、話相手がいるのは嬉しい」
「シリン…」

セルドの表情にシリンは”しまった”と思う。
これではまるで今まで誰も話し相手がいなくて寂しかったと言っているようなものだ。

「えっとね、兄様…」
「おいで、シリン」

にこりっとセルドが笑みを浮かべてシリンを手招きする。
楽しくて笑っている笑みではないことは分かる。
一体何をするつもりなのだろうか、とシリンは首を傾げながらも椅子から降りてセルドの近くまでいく。
近くまできたシリンにセルドがぎゅとっと抱きつく。

「兄様?」
「充電中」
「……はい?」

別にセルドに抱きつかれることは珍しくもなく、セルドが久しぶりに帰ってきた時はシリンの方から抱きつくこともあるくらいだ。
身体をひっつけていても、緊張もしないしドキドキするわけでもない。
シリンはセルドが満足するまで、そのままじっとしている。
甲斐の視線が少し気になるが、セルドとシリンが抱き合っている場面など、フィリアリナの屋敷にいれば目にする事は多いだろう。
今この場面でだけやめたところで意味があまりない。

(甲斐がどんな表情しているのか分からないけど、多分呆れているんだろうな)

セルドのシスコンぶりと、それに全く抗わないシリンに。
それでもシリンはセルドが大切で、セルドもシリンが大切なのだ。
だが、シリンに抱きついているセルドは、思いっきり甲斐を睨んでいたのをシリンは知らない。
その視線に甲斐は何か言いそうだったが、盛大に顔を引き攣らせるだけに留めていたのも、甲斐に背を向けていたシリンには分からなかった。
人の顔を見れば感情を読み取ることは可能だが、表情も何も見えない状態では気配を感じ取ることができないシリンには、人の感情に気づくはずもないのだ。
そんなこんなで、シリンの知らないところでセルドが甲斐に対して敵意を向けるという状況がしばらく続く事になるのだった。


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