WORLD OF TRUTH 15.5



フィリアリナ家のシリン姫が、脱獄したイディスセラ族の女に人質として浚われた。
それがティッシ軍にいる、兄であるセルド、それからクルス、そして両親に伝わった時にはすでにその時から一晩が経過していた。
それを知らせに来た屋敷の者が、周囲が可哀相だと思うほどに申し訳なさそうな表情をして何度も頭を下げているのを、セルドは何も見ていなかった。

「シリン…が?」
「申し訳ございません!私共がシリン姫様をきちんと見ていればあのような事には…っ!」

シュリとの戦争が始まろうとしている時、このような事態になるとは誰も思わなかっただろう。
セルドはぎゅっと拳を握りしめる。
進軍の準備をしているこの時に、心が揺らいではいけないというのに、セルドは屋敷の者に気遣いすらかけてやる余裕がない。

― 兄様!

いつも笑顔で、セルドが八つ当たりするようなことを言っても笑顔で受け止めてくれるような大切な妹。
フィリアリナ家の者だというのに、その身に宿す法力は少なく、反対に同じ時に生まれたセルドはティッシ国一になるかもしれない法力の持ち主。
それなのにシリンは決してセルドを恨まず妬まず、セルドにただ双子の兄として愛情を向けてくれた。

「セルド」

ぽんっと軽くセルドの肩に手が置かれる。
ふいっとセルドが顔を上げてみれば、父がすぐ側にいた。

「ここで謝罪をするよりも、屋敷ですべきことをしろ」
「旦那様…」
「起こってしまった事は仕方がない」
「…申し訳、ございませんでした」

深々と頭を下げ、屋敷の者はそのままここから去っていった。
父の言い方はとても冷たそうに聞こえたが、あのまま何も言わなければ彼はずっと頭を下げそして謝罪の言葉を述べ続けただろう。
セルドは表情の変わらない父を見る。

「心配か?」

聞こえる声音にも変化は見られない。

「はい…」

小さく、セルドには小さな声でそう答えることしか出来ない。
心配だとそう一言では済ませられないほど、セルドにとって妹の存在は大切なものだ。
張り詰めたような学院での生活で疲れた心を癒してくれる存在。
どんな時でも、シリンは笑顔で屋敷で待っていてくれるのが当たり前だと思っていた。
だが、今屋敷にシリンはいない。

「だが、この状況での動揺は許されない」

それはセルドとて言われなくても分かっている。
頭の中では分かっているのだ。
父は、どうしてそう平然としていられるのだろう。
シリンが心配ではないのだろうか、とセルドは怒りをこめるかのように父を睨もうとした。
だが、その前に気付く。
自分の肩に置いている父の手がわずかに震えていることに。

「父上…」
「大丈夫だ」
「父上?」
「シリンは大丈夫だ」

父の震えはシリンを浚ったイディスセラ族への怒りか、それとも浚われたシリンを失ってしまうことへの恐怖か。
もしかしたら両方かもしれない。

「あの子はとても聡明な子だ。だから、自分の置かれた状況を理解して、最善の選択を……する、はずだ」

そう願いたいのだろう。
このティッシ国ではかなりの身分になるだろうこの父は、ただの”父親”でもあるのだ。
娘を心配しないはずがない。
シリンは確かに聡明だとセルドも思っている。
あの落ち着きように、判断力の正確さに、セルドはすごいと思ったことがある。

「そうだよ、父上。シリンはきっと大丈夫」
「ああ」

父の本心が少しだけ見え、セルドは落ち着く。
こんな気持ちを抱えているのは自分だけではないことが分かったからか。
シリンの存在はとても不思議だ。
人を安心させてくれる何かがあるかのように、側にいるとほっとする。

「進軍の予定を早めよう」
「父上?」
「脱獄という挑発をされて、こちらが大人しくしているとは思われたくないのでな」

それはきっと表向きの理由だろう。
浚われて不安になっているかもしれない娘のシリンを、一刻も早く救い出したい。
セルドがそう思っているように、父もそう思っているはずだ。
父がすっと雰囲気を変え、進軍を早めようと手続きするために動こうとしたその時、1つの声が父を呼び止める。

「グレン」

静かに響くその声は、支配者の声であり、セルドには聞き覚えのある声。
グレンという父の名を呼べるのは、母かもしくは父以上の位の者。
セルドは何度も聞いたことがあるはずのその声に、一瞬ぞくりっとしてしまった。

「クルス殿下、どうされましたか?」

クルスの新緑の瞳に優しい色は見られない。
いつも穏やかな表情を浮かべているはずのクルスの表情は、この戦争開始直前という状況だからなのか、まるで鋭い刃物のように怖いと感じさせる。
睨むわけでもない、何の表情も浮かんでないだけだというのに。

「シリン姫が浚われたと聞いたんだけれど、それは本当かい?」

その声の冷たさにセルドは寒気に襲われる。
父もぴくりっと反応する。
いつものクルスとは雰囲気が全く違うのだ。
昨日はまだ穏やかな笑みを浮かべていたはずだというのに、戦争開始直前というのは今の雰囲気とは何も関係がないのだろうか。

「ええ、本当のようです」
「脱獄したイディスセラ族に、だね」
「はい」
「…そう」

少しだけ目を伏せるクルス。
セルドは学院でクルスと会話をすることは何度もあった。
彼を怖いと思ったことなど今まで1度もなかったというのに、今は彼がとてつもなく怖いと思える。
尊敬の念はあっても、恐怖を抱くことなど有り得ないと思っていたというのにだ。

「グレン、予定では進軍開始は何日後になる?」
「10日後になるかと思われます。ですが…」

父、グレンはそれを早めてもいいものかと許可を取ろうと口を開く。
だが、それより早くクルスが新緑の瞳をグレンへと向ける。
すぅっと向けられた鋭い刃のような感情を宿したその瞳を見て、グレンは思わず言おうとした言葉を止めてしまう。

「3日」

それは命令でもなく、まるで決定事項かのように放たれる言葉。

「本当ならば1日と言いたいところだけど、3日で進軍準備を全て整えるようにしてくれるかな」
「クルス殿下、たった3日では…」
「グレン」

すぅっと目を細めるクルス。
その瞳にはわずかに殺気すら含まれている。

「イディスセラ族にみすみす人質まで取られて逃げられたというのに、我が国は何も感じずにいるとは思われたくないんだよ。3日、…そう3日も与えるんだ。勿論、出来るね?」

それはもやは問いではない。
王弟殿下とはいえ、才能に恵まれ若いながらも副将軍の地位にいるクルス。
副将軍の地位に甘んじているのは年齢のせいだからだろう。
実力から考えれば、もっと上の職にいてもおかしくないとティッシ国では囁かれている。
戦場では冷酷で残忍。
クルスの噂でそう聞いたことがあった。
これがそうなのか、とセルドは息を呑む。

「承知致しました、殿下」

父はクルスの命令に意見もせず承知するだけだ。
それで満足したのか、クルスはそのままこの場を離れていった。
その姿が見えなった頃になって、セルドは大きく息を吐く。
それは安堵の息だった。
あの雰囲気のクルス相手に緊張をしていたのだと気付く。

「セルド。クルス殿下はシリンと仲が良かったのか?」

父はクルスの離れていった方向を見たままセルドに問う。
セルドは考えてみるが、クルスが何度かシリンをたずねて屋敷に来たことはあった。
だが、それはこの1年間で片手で数えるほどしかない。

「何度かシリンを訪ねて屋敷に来たことはあったけれど…父上?」

セルドが知らないだけで、シリンとクルスはかなりの回数会っていた。
正式に屋敷に訪問したのが片手で数えるほどなだけであり、窓から侵入したのは数知れず、下町で会った回数は最低月1回とかなり頻繁に会っていたりしたのだ。

「あのような殿下は初めて見る」

父がわずかに顔を顰めるほどに、クルスの様子はいつもと違ったものなのだろう。
いつも穏やかな青年が、あそこまで凍えるような雰囲気を持つことが出来るものなのか。

「イディスセラ族がどれだけ脱獄しても、戦争で彼らを相手にしても、殿下はいつもと変わらず穏やかな雰囲気を保ったままだったというのに…」
「でも、父上、クルス殿下は戦場ではとても冷酷で残忍だと聞いているよ」
「ああ、そうだ。イディスセラ族には慈悲の欠片もなく法術を放ち、手加減というものを全くしない」

それはあのような雰囲気をまとっているのではないのだろうか。

「だが、殿下はいつも穏やかな雰囲気を保ったままだった」

穏やかな笑みを浮かべたまま、イディスセラ族と戦い、そして彼らを捕らえ拷問する。
やっていることはとても残忍で冷酷なものだというのに、クルスの雰囲気はいつも変わらなかったという。
触れればば斬られてしまいそうな、先ほどのような雰囲気をまとうことは今までなかった。

「クルス殿下は、学院でもいつも穏やかで…」

そこでセルドはふっと思い出す。
以前シリンを訪ねてきたクルスの様子を。

― また来たんですか…。

大きなため息をついてシリンが呆れたようにそんなことを言っていた。
その時”また”という言葉に少し疑問を覚えたのだが、クルスの表情を見てそんな疑問はすぐに消えてしまったのだ。

― シリン姫が喜びそうなお菓子が手に入ったからね
― それじゃあ、お茶を出しますよ
― うん、頼むよ

とても嬉しそうに笑みを浮かべたクルスを見た。
いつも浮かべている穏やかな笑みとは違う、きっとあれは心からの笑み。
シリンと一緒にいるのならば心からの笑みを浮かべる事が出来る気持ちを、セルドはなんとなく分かる。
シリンは、気持ちを、心を、とても優しく受け入れてくれるから。

「父上、クルス殿下は…」

シリンの事が大切だと思っているかもしれない、その言葉をセルドは言わなかった。
言う前に父が頷いたからだ。
言われなくても気づいたのだろう。
昨日は特に変わった様子はなかったクルス。
シリンが浚われたという事実が広まったのが今日、そしてあの変わりよう。

「シリンは、とんでもない方に好かれたものだな」

どこか困ったような父の言葉に、セルドは心の中でのみ同意した。
あの雰囲気を知らなければ、父のこの意見に同意することはなかったかもしれない。
今のクルスはとても怖い。
心の底でとても強い怒りを秘めていることを感じさせる。
その怒りはきっとシリンの為のものなのだろう。
改めてそう思うと、セルドはあのクルスへの恐怖が少し和らいでくる。
いつも慌てることなど知らないかのように、穏やかな雰囲気を保ったままの、憧れともいえる存在のクルスも、今はセルドと同じような気持ちでいる。

「シリン…」

セルドは小さく大切な妹の名を呟く。
どうか無事で、決して傷つくことなく戻ってきて欲しい。
心からそう願う。
シリンを浚ったというイディスセラ族の女、彼女はとんでもない人を浚ったことに気付いているだろうか。
いや、気付いていないだろう。

このティッシで将来を期待され、幼いながらにこの戦争に参加することを許可された将来有望なフィリアリナの長男、セルド・フィリアリナ。
今回のティッシ軍を率いる立場であり、シリンの父であるグレン・フィリアリナ。
それから、ティッシ国王の王弟でありながら、副将軍の地位を持つクルス・ティッシ。

シュリはシリンを浚うことによって、自らを追い詰めていることを果たして気付くだろうか。
こんなことになるなんて気付かないだろうね、とセルドは思う。
セルドでさえもクルスがあそこまで変わることなど予想はついていなかった。
きっと、この戦争はシュリに多大な被害を与えることになるだろう。
誰もが予測しえない、予想外の事態が起こらない限りは…。


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